中国の古典編―漢詩を読んでみよう(35)陶淵明(12)「帰去来の辞」2-楽しい読書391号
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2025(令和7)年6月30日号(vol.18 no.11/No.391)
「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(35)陶淵明(12)
さあ、帰ろう「帰去来の辞」2」
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2025(令和7)年6月30日号(vol.18 no.11/No.391)
「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(35)陶淵明(12)
さあ、帰ろう「帰去来の辞」2」
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「中国の古典編―漢詩を読んでみよう」陶淵明の12回目、最終回です。
陶淵明編もいよいよ最後の一篇の後編です。
今回は、『漢詩を読む 1 『詩経』、屈原から陶淵明へ』
「九、達観を目指して――陶淵明の世界」より、
<さあ、帰ろう>「帰去来の辞」の詩の第四段を紹介します。
一から三段目までは、前回の号をご参照してください。
陶淵明の詩の紹介は今回が最終回となります。
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◆ 人生観の詩 ◆
中国の古典編―漢詩を読んでみよう(34)
~ 陶淵明(12)さあ、帰ろう ~
「帰去来の辞」第四段 他
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今回の参考文献――
『漢詩を読む 1 『詩経』、屈原から陶淵明へ』
江原正士、宇野直人/著 平凡社 2010/4/20
「九、達観を目指して――陶淵明の世界」より
(Amazonで見る)『漢詩を読む 1 『詩経』、屈原から陶淵明へ』
●「帰去来の辞」(第四段)
《今、自分の人生が終わりそうな予感にふと心を痛めたのを受けて、
「已んぬるかな」と始まります。》p.408
《最後は、自分の人生観のようなものに発展させてゆきます。》p.409
(四段目)
已矣乎 已(や)んぬるかな
寓形宇内復幾時 形(かたち)を宇内(うだい)に寓(ぐう)する
復(ま)た幾時(いくとき)ぞ
曷不委心任去留 曷(なん)ぞ心(こころ)を委(ゆだ)ねて
去留(きよりゆう)に任(まか)せざる
胡為遑遑欲何之 胡(なん)為(す)れぞ遑遑(こうこう)として
何(いづ)くにか之(ゆ)かんと欲(ほつ)する
富貴非吾願 富貴(ふうき)は吾(わ)が願(ねが)ひに非(あら)ず
帝郷不可期 帝郷(ていきよう)は期(き)す可(べ)からず
懐良辰以孤往 良辰(りようしん)を懐(おも)うて
以(もつ)て孤(ひと)り往(ゆ)き
或植杖而耘子 或(ある)いは杖(つえ)を植(た)てて耘子(うんし)す
登東皋以舒嘯 東皋(とうこう)に登(のぼ)り
以(もつ)て舒嘯(じよしよう)し
臨清流而賦詩 清流(せいりゆう)に臨(のぞ)んで詩(し)を賦(ふ)す
聊乗化以帰尽 聊(いささ)か化(か)に乗(じよう)じて
以(もつ)て尽(つ)くるに帰(き)し
楽夫天命復奚疑 夫(か)の天命(てんめい)を楽(たの)しんで
復(ま)た奚(なに)をか疑(うたが)はん
まあよろしい、くよくよするな
我が肉体をこの世に預けること、もはやどれくらいであろうか
どうして心を自然に委ねて、死ぬか生きるかの成り行きに任せないのか
どうしてあくせくと忙しそうにして、どこに行こうとするのか
財産も高い名誉も私の願うところではない
仙人の都に行くことは期待できない
そこで天気のよい日に一人で出かけて行き
時には杖を立てかけ、
自ら草を刈ったり土寄せをしたりしようではないか
東の丘に登ってゆっくりと深呼吸でもして
清らかなせせらぎにのぞんで詩でも作ろう
そんなふうにしてとりあえず自然の万物の変化と一体になり
わが生命が尽きることを納得しようではないか
天命というものを楽しみ、もはやそれを疑うことはすまい
「形」は、肉体や身体。
「宇」は、空間を表わし、「宇内」で“天下、世の中”の意味。
(当時は)四十一歳でこういう感慨が出て来る。
「寓す」は、“寄せる、宿す”。
《“人間の体はこの世の仮のものだ”という考え方だとすると、
ちょっと道家的です。》
反語が続く。
「曷ぞ~せざる」の形で勧誘の間隔が強く、「ぜひ~しよう」。
もはや行く必要はない。
自分を納得させようとしている感じ。
「帝郷」は、仙人の住む都。
陶淵明さんは、神仙思想を信じていません。
「耘子」は、草を切ることと、土を耕すこと。
《“これからは天命に従って生きてゆきましょう”と、
悟りのような言葉で終わっている》p.410
●「帰去来の辞」が代表作とされる陶淵明さんは……?
四十一歳で悟りきってしまったような……
《儒教の教えに従って、世直しを志して官職に就いたはずが、
うまくゆかなかった。
幼少期以来刷り込まれた考え方に背くわけですから、反作用として
これくらい強いことを言わずにいられなかったんでしょう。》p.410
と、宇野さんの解説。
最晩年の詩と比べるとエネルギーが……
《こちらは燃焼度が高いですね。やはり実際に、“これから理想の
生活が始まるんだ”と希望に燃え、また自分を駆り立てる意味でも
あったんでしょうか。実体験がまだない分、こういう観念的・
理想的なことだけ言えたという気もします。》p.410
三十代で作った「五柳先生伝」もそうで、陶淵明さんには理想主義的な
「自分はこうありたい」という作風がある?
《時期ごとに或る理想や願望に従って、その時々にそれを詩に吐露した
という印象です。》p.401
後世の詩人は陶淵明さんをどのように見ているのか?
《“世を見限ってわが道を大切に生きた人”と捉えるのが主流》同上
《時々“それだけじゃ済まないぞ”と見破った人がいて、たとえば
杜甫は“陶淵明は悟り切っていない。不徹底な人だ”という
意味のことを言っていて、やはりよく見ていますね。(「陶潜は俗を
避くるの翁なるも/未だ必ずしも能く道に達せず」――
「興を遣る五首」其の三)》同上
《北宋の蘇軾(そしょく)や、何層の哲学者の朱子、近代の小説家魯迅
なども、「陶淵明は達観しているようでいて、実は反骨精神に満ち
あふれている」といったことを述べています。》同上
《本書ではとくに、陶淵明はその時々、拠り所が見つからずに迷って
いた人だった、という面をクローズアップできたかと思います。》
同上
本書『漢詩を読む 1 『詩経』、屈原から陶淵明へ』の著者の一人、
宇野直人さんの陶淵明の見方は、他の類書とは少し異なっています。
この点は、本書の「おわりに」に、
《類書には見られない新しい見解が随所に示されています。》p.412
とあり、
《陶淵明の、ためらい悩む気弱な一面など》同
が、それだ、といいます。
本編「帰去来の辞」でも、そういう面を強調されていました。
巻末の「主要参考文献」に上げているような、関連する書籍と
読み比べていただくことで、漢詩の世界がますます深いものとして
実感されることでしょう、といいます。
●興膳宏『陶淵明』の「帰去来の辞」解説
昨年12月に講談社学術文庫から出版された
『陶淵明』興膳 宏(こうぜん ひろし)/著 講談社学術文庫 2024/12/12
(Amazonで見る)
(原本は、1998年に『風呂で読む陶淵明』として世界思想社より刊行)
から、「帰去来の辞」の解説を引用しておきます。
《「帰去来の辞」序の末尾に、「乙巳の歳(義煕元年、四〇五年)
十一月」と署されていて、陶淵明が四十一歳の年、県令の地位を
なげうって郷里の家に帰ってきて間もなくの作と知られる。
窮屈な役人暮らしに決別して、かねてからの念願だった
田舎での自由な生活に入ることのできた喜びが、
飾り気のない筆で率直にうたわれており、
陶淵明の文学の基点を示す作品といってよい。
変わらぬ節義を象徴する松と菊、解放された自由の境地を暗示する
雲と鳥、人をやさしく受け入れてくれる農村の自然と人情、
そして生命の変化に身を任せて生きようとする死生観など、
陶淵明の文学に現われる諸特徴がすでにここに集約的にうかがえる。ただ、
「帰去来の辞」はともすれば悟りすました隠遁者の心境の表白として
見られがちだが、実は、社会と自分との葛藤に悩み続けてきた
孤独な人物の苦悩を、新生活の第一歩を踏み出すに当たって、
かく生きたいという将来の願望の形で投影した作品と見るのが、
むしろ妥当ではあるまいか。
「辞」は、韻文の一種で、詩と賦の中間的な形式ととる。
四種の韻を用いており、換韻ごとに一つの段落を構成する。
この篇は『文選』にも収められる。》p.12-13
●陶淵明と「帰去来の辞」について
前回も書きましたが、「帰去来の辞」には「序」が付いていて、
どういう理由で役人を辞めて帰郷するのかという説明が入っています。
元々役人には向いていない自分だと分かっていたけれど、
生きるために、飯を食うために仕方なく職に就いたのだ、と。
そして、「帰去来の辞」は、いよいよ数え年で四十一歳になって、
故郷に帰ってあこがれていた自然の中での暮らし、
農耕生活に入っていくぞ、という決意の詩でした。
当時の社会では、彼の家ぐらいの地方の小貴族では、
出世も限られており、儒教を信奉する身であっても、
社会のためにできることは限られており、
そういう理想と現実のギャップの中で選んだ道だったのでしょう。
人生に負けた、というわけではなく、
新たな挑戦ということだったのでしょう。
結果的に、彼の人生はどうだったのでしょうか。
今では田園詩人のように言われていますが、
宇野さんや他の人の解説にもあるように、
平易な言葉で自分の生活を語る、あるいは、時に桃源郷のような、
山海経のようなファンタジーを扱ってみたり、
自由な作家であったように感じます。
唐代以前の詩人の中では圧倒的な存在だったと思います。
なにしろ、私のように無知な人間でも知っている名だったのですから。
●陶淵明の詩の有名なくだり――歳月人を待たず
陶淵明の詩の中でもっとも人口に膾炙しているくだりは、
「雑詩」其の一の
《盛年 重ねては来たらず。一日再たびは晨なり難し。
時に及んで当に勉励すべし。歳月 人を待たず」》
(『陶淵明 全詩文集』林田慎之助/訳注 ちくま学芸文庫
「解説」より)
でしょう。
このくだりを、「若い日は二度と来ないのだから勉強に励め」
というふうに解釈して引用されることがよくあります。
「時に及んで当に勉励すべし」の部分を、
「勉強に励め」というのではなく、
歳月は人を待ってはくれないのだから「存分に楽しめ」というのが、
正しい解釈であると多くの方々が述べています。
「飲酒」等の詩を読んできましても、その心はやはり、
後者の解釈が正しいのだろう、という気にさせます。
陶淵明さんといえば、田園詩人といわれ、
「歳月 人を待たず」の人として知られ、
そういうイメージで見てきました。
今回あれこれの詩を拝見し、改めて陶淵明さんの
様々な困難があって悩みながらも、自分なりの楽しみを見つけ、
まわりの人と酒でも酌み交わしながら、日々を暮らしてゆこうという、
人間的な魅力というものを知った気がします。
機会ある度にもっと色々とその詩を読んでみたいものです。
「歳月、人を待たず」ですから。
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本誌では、「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(35)陶淵明(12)さあ、帰ろう「帰去来の辞」2」と題して、今回も全文転載紹介です。
思いのほか長くなった感の陶淵明編でしたが、唐代以前の詩人では、『楚辞』の屈原以外では、陶淵明さんぐらいしか知らない人でしたので、まあ、そんなものかという感じです。
秋からは、いよいよ唐代の詩人に向けて再出発となります。
当初、この<漢詩を読む>は、屈原、陶淵明、杜甫・李白、白居易(白楽天)ぐらいで、イージーに行くつもりでした。
それが、平凡社のこのシリーズ『漢詩を読む 1 『詩経』、屈原から陶淵明へ』(江原正士、宇野直人/著)を知ってから、それに則りながら、気になった詩人とその作品を適当にピックアップしていくという形になりました。
その1巻目が終わり、いよいよ次からは唐代の詩人たちの2巻へ入ってゆくことになります。
これからも、このシリーズとともに進めていこうと考えています。
今後とも、よろしくお願いいたします。
・・・
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