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2025.05.31

中国の古典編―漢詩を読んでみよう(34)陶淵明(11)「帰去来の辞」1-楽しい読書389号

古典から始める レフティやすおの楽しい読書(まぐまぐ!)

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2025(令和7)年5月31日号(vol.18 no.9/No.389)
「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(34)陶淵明(11)
さあ、帰ろう「帰去来の辞」1」

 

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2025(令和7)年5月31日号(vol.18 no.9/No.389)
「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(34)陶淵明(11)
さあ、帰ろう「帰去来の辞」1」
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 「中国の古典編―漢詩を読んでみよう」陶淵明の11回目です。

 陶淵明編もいよいよ最後の一篇となります。
 
 今回は、『漢詩を読む 1 『詩経』、屈原から陶淵明へ』
 「九、達観を目指して――陶淵明の世界」より、
 <さあ、帰ろう>「帰去来の辞」の詩を読んでみます。

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◆ 決意の詩 ◆

 中国の古典編―漢詩を読んでみよう(33)

  ~ 陶淵明(11)さあ、帰ろう ~ 
 
  「帰去来の辞」第一段から第三段まで

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今回の参考文献――

『漢詩を読む 1 『詩経』、屈原から陶淵明へ』
 江原正士、宇野直人/著 平凡社 2010/4/20
「九、達観を目指して――陶淵明の世界」より
(Amazonで見る)『漢詩を読む 1 『詩経』、屈原から陶淵明へ』

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 ●「帰去来の辞」について

「帰去来兮辞(帰去来の辞)」は、本文は四段からなる本文の前に
「序」文が付いています。
そこには、いかなる理由で官職を辞め帰郷するのか、が綴られています。

貧しい生活の中で子供たちを食わせるために仕官した。
しかし少日にして帰りたいという気持ちになった。
役人の生活は自分には向いていない。
自分の理想とする生き方ではない。
妹が死んだのを機に、葬儀に行くのを理由に職を辞めることにした。
云々。
その末尾に日付があり、四十一歳の時のことと分かります。

いよいよ自分の理想とする生活に入ってゆくぞ、という決意の詩であり、
田園作家とも言われる陶淵明さんの代表作といわれています。

 

 ●「帰去来の辞」(第一段)

「帰去来の辞」は、四十一歳で官職を辞めて、その翌年の春、
隠居生活が始まった直後に作った詩。

 《“これからやるぞ”と意気盛んな、言ってみれば人生で一番
  高揚していた頃の作品で、彼の一般的なイメージを形づくった
  代表作です。》p.400

どういう場で詠まれたのかはわからないようですが、
 《親戚が集まった宴会、退職のご苦労様会で発表された雰囲気があ》る
と、宇野さんの解説。

内容は、
 《第一・第二段がひとまとまりで、官職を退いて帰郷し、落ち着いた
  ところまでの描写。第三・第四段は、“さあこれからだ”の決意表明
  で、思想的な要素が入って来ます。》同上

 

帰去来兮辞    帰去来の辞(ききよらい)の(じ)   陶淵明

(第一段)

帰去来兮      帰(かへ)りなん いざ
田園将蕪胡不帰   田園(でんえん) 将(まさ)に蕪(あ)れんとす
           胡(なん)ぞ帰(かへ)らざる

既自以心為形役   既(すで)に自(みづか)ら心(こころ)を以(もつ)て
          形(かたち)の役(えき)と為(な)す
奚惆悵而独悲    奚(なん)ぞ惆悵(ちゆうちよう)として
          独(ひと)り悲(かな)しまん
悟已往之不諫    已往(いおう)の諫(いさ)められざるを悟(さと)り
知来者之可追    来者(らいしや)の追(お)ふ可(べ)きを知(し)る
実迷途其未遠    実(まこと)に途(みち)に迷(まよ)ふこと
           其(そ)れ未(いま)だ遠(とほ)からず
覚今是而昨非    今(いま)の是(ぜ)にして
           昨(さく)の非(ひ)なるを覚(さと)る

舟遙遙以輕颺    舟(ふね)は遙遙(ようよう)として
          以(もつ)て軽(かろ)く颺(あが)り
風飄飄而吹衣    風(かぜ)は飄飄(ひようひよう)として
          衣(ころも)を吹(ふ)く
問征夫以前路    征夫(せいふ)に問(と)ふに
          前路(ぜんろ)を以(もつ)てし
恨晨光之熹微    晨光(しんこう)の熹微(きび)なるを恨(うら)む

 

 さあ、帰ろう
 我が家の畑も庭も、今ごろは荒れ果てているだろう
  さあ、帰ろうではないか

 私はこれまで自ら、心を肉体の奴隷にして来た
 しかしどうして今さら打ちしおれ、一人で悲しんでいることがあろうか
 過ぎた事はもはや改められないと悟り
 今後の事はまだ追いかけて間に合うとわかったのだ
 まことに私は人生の道に迷ったとは言うものの、
  決して深入りはしていない
 今の気持ちは正しくて、昨日までの気持ちは間違っていたんだ

 故郷に向かう舟はゆったりと風を受けて、軽やかに進む
 風はひらひらと我が衣の袖をふいている
 舟を操る船頭さんに先の道のりを尋ねたが
 日の光が弱くてよく見えないのが残念である

 

「帰去来兮」は、「帰りなん いざ」と読む。
動詞の「帰る」に方向性を示す「去」がついて「帰去」=「帰って行く」。
「来」は言葉の終わりにつける助詞で、ここでは促す意味で、
「いざ」という大和言葉が一番合うだろう、と。
「兮」は『楚辞』風の歌には必ず入っている。
「~の辞」という題が『楚辞』系列の作品であることを示す。
陶淵明は、南国の人で、『楚辞』に親近感があるのでは、と宇野さん。
「胡ぞ~ざる」は“ぜひ~しよう、ぜひ~しなさい”など勧誘の気持ち。

次の六句、今までの生活の反省
本心を曲げて官職を続けてしまった。
官職に就いたのも自分の責任、悲しんでいる暇はない。
「過ぎた事」とは役人になったこと。

「軽く颺り」は「軽やかに進む」。
「征夫」は船頭で、「晨光」は日の光、「熹微」は微かなようす。

 

 ●「帰去来の辞」(第二段)

第二段は、いよいよ実家についた心境やようす、家族たちの出迎え、
庭の描写など。

 

(第二段)

乃瞻衡宇     乃(すなは)ち 衡宇(こうう)を瞻(み)
載欣載奔     載(すなは)ち欣(よろこ)び 載(すなは)ち奔(はし)る
僮僕歓迎     僮僕(どうぼく) 歓(よろこ)び迎(むか)へ
稚子候門     稚子(ちし) 門(もん)に候(ま)つ

三逕就荒     三逕(さんけい) 荒(こう)に就(つ)けども
松菊猶存     松菊(しようきく) 猶(なほ) 存(そん)す
携幼入室     幼(よう)を携(たずさ)へ 室(しつ)に入(い)れば
有酒盈樽     酒(さけ)有(あ)りて 樽(たる)に盈(み)てり
引壺觴以自酌   壺觴(こしよう)を引(ひ)いて
          以(もつ)て自(みづか)ら酌(く)み
眄庭柯以怡顏   庭柯(ていか)を眄(かへり)みて
          以(もつ)て顏(かんばせ)を怡(よろこ)ばしむ
倚南窓以寄傲   南窓(なんそう)に倚(よ)りて
          以(もつ)て傲(ごう)を寄(よ)せ
審容膝之易安   膝(ひざ)を容(い)るるの安(やす)んじ
          易(やす)きを審(つまび)らかにす

園日渉以成趣   園(その)は日(ひ)に渉(わた)つて
          以(もつ)て趣(おもむき)を成(な)し
門雖設而常関   門(もん)は設(まう)くと雖(いえど)も
          常(つね)に関(とざ)せり
策扶老以流憩   策(つゑ)もて老(お)いを扶(たす)けて 
          以(もつ)て流憩(りゆうけい)し
時矯首而遐観   時(とき)に首(かうべ)を矯(あ)げて遐観(かかん)す
雲無心以出岫   雲(くも)は無心(むしん)にして
          以(もつ)て岫(しゆう)を出(い)で
鳥倦飛而知還   鳥(とり)は飛(と)ぶに倦(う)みて
          還(かへ)るを知(し)る
景翳翳以将入   景(ひ)は翳翳(えいえい)として
          以(もつ)て将(まさ)に入(い)らんとし 
撫孤松而盤桓   孤松(こしよう)を撫(ぶ)して 盤桓(ばんかん)す

 

 ようやく我が家の門や屋根が目に入り
 私は喜びのあまり、走りつつ帰って行った
 召使いや使用人たちは喜んで迎えに出てきてくれ
 幼い子供たちは門のところで待っていてくれた

 門を入ると、庭の三つの道は荒れ始めていた
 松や菊はまだしっかり残っていた
 幼い子の手を引いて部屋に入ると、
 お祝いの酒がたるいっぱいに満たされていた
 徳利と杯を引き寄せて手酌で飲みながら
 庭の木の枝を眺めて表情をやわらげる
 南の窓に寄りかかって、ゆったりとくつろぎ
 この狭い家もそれなりに落ち着きやすいことがよくわかった

 庭は日毎によい趣になってゆく
 我が家の門はあることはあるが、つねに閉ざされている
 杖をついて、老いに近づいた私の歩みを助け、
 あちこちで気ままに休憩しながら散歩し
 時々首を上げて辺りを見回す
 雲は無心に山のほら穴から出て来る
 鳥たちは飛ぶのに疲れて巣に帰ることを知っている
 やがて日の光は薄暗くかげり、いよいよ沈もうとするが
 庭に一本だけ立つ松の木をなで、去るにしのびずたたずんでいる

 

「衡宇」は家の門と屋根。
「載ち欣び 載ち奔る」で「喜びながら走った」が直訳。
「稚子」は、「子を責む」の五人の子供たち、逆算すると、
長男十四歳ぐらい、末っ子が七歳なので。
「三逕」は、三つの道――門から通じていく道・裏門の道・井戸への道
――この作品以後は隠者の住みかの代名詞となる。
「傲」は“たのしみ、気まま”の意。
「膝を容るる」は、左右の膝がやっと入るぐらいの空間、部屋が狭いこと。
「園」は庭。季節は春で、木や草の緑が濃くなり、花も咲く。
訪ねてくるうるさいお客さんがいない。
「流憩」は、あちこちで休憩すること、気ままな生活。

「時矯首而遐観」からの四句は有名で、独立して引用される。
なぜこれが名句なのかわかりにくいが――
 《“動物たちや万物はみんな自らの分に安んじている”
  という意味でしょうか。“功名心を捨てて辞職し、
  故郷に帰った自分も彼らと同じになったんだなあ”
  というたとえかな。》p.405

「岫」は、山にある洞穴――
古代中国では雲は山の洞穴から湧いて出て来るという言い伝えがある。
“雲が山から出る”は、よく隠者の暮らしのたとえとして使われれる。

松も陶淵明の詩によく出て来る。
 《常緑樹の松は、節操を変えない信念の人を表わすので、
  そこに共感を覚えて
  「やっと自分も松の木のように節操をまっとうできるぞ」
  といった心境なんでしょうか。》p.405

 

 ●「帰去来の辞」(第三段)

帰去来兮      帰(かへ)りなん いざ
請息交以絶游   請(こ)ふ 交(まじ)はりを息(や)めて
          以(もつ)て游(ゆう)を絶(た)たん
世与我而相違   世(よ)と我(われ)と 相違(あいたが)ふ
復駕言兮焉求   復(ま)た駕(が)して
          言(ここ)に焉(なに)をか求(もと)めん

悅親戚之情話   親戚(しんせき)の情話(じようわ)を悅(よろこ)び
楽琴書以消憂   琴書(きんしよ)を楽(たの)しんで
          以(もつ)て憂(うれ)ひを消(け)さん
農人告余以春及  農人(のうじん) 余(よ)に告(つ)ぐるに
          春(はる)の及(およ)べるを以(もつ)てし
将有事於西疇   将(まさ)に西疇(せいちゆう)に於(お)いて
          事(こと)有(あ)らんとす

或命巾車     或(ある)いは巾車(きんしや)を命(めい)じ
或棹孤舟     或(ある)いは孤舟(こしゆう)に棹(さお)さす
既窈窕以尋壑   既(すで)に窈窕(ようちよう)として
          以(もつ)て壑(たに)を尋(たづ)ね
亦崎嶇而経丘   亦(また)崎嶇(きく)として丘(をか)を経(ふ)

木欣欣以向栄   木(き)は欣欣(きんきん)として
          以(もつ)て栄(えい)に向(むか)ひ
泉涓涓而始流   泉(いづみ)は涓涓(けんけん)として
          始(はじ)めて流(なが)る
善万物之得時   万物(ばんぶつ)の
          時(とき)を得(え)たるを善(よみ)し
感吾生之行休   吾(わ)が生(せい)の行ゝ(ゆくゆく)
         休(きゆう)するに感(かん)ず

 さあ、帰ってきたぞ
 どうかこれからは社交を断ち切って、
  世の人々との交友もきっぱり辞めよう
 世の中と私とは、お互いに忘れてしまおう
 ふたたび車に乗って宮仕えをして、何を求めるというのか
 
 これからはそれよりも親戚の真心のある話、
  社交辞令ではない心からの会話、
 また琴や書物を楽しんで心配ごとを消そう
 我が荘園の農夫たちは、私に春がやって来たことを告げる
 これから西の畑でたいへんな事が始まりそうだ

 或る時は蔽いをかけたくるまに命じて陸地を行き、
 或る時は一艘の小舟に棹さして川を行こう
 深い山道をどこまでも辿り、谷川の奥を訪ね、
 険しい山道を通って丘を越えたりしよう

 木々は生き生きとして青葉が茂り、花を咲かせて
 山中の泉は、なみなみと水量も増えて盛んに流れ始めるであろう
 そんなふうに、私は万物が春の時節を得て栄えるのを楽しく眺める
 一方で、自分の人生がだんだん終わりに近づくことに
 ふと感傷を覚えたりするであろう

 

「来」は、“達成された”という意味もあり、前からの続きで言えば、
もう帰っているので、「さあ、帰ってきたぞ」ぐらいの感じ。

 《最初の四句は世の中への絶縁状というか、“もう役人社会はいい”
  というきっぱりした宣言です。》p.407

 

「請ふ~せん」は“どうか~したい”という請願の形。
「駕す」は、動詞で“馬車に馬をつける、馬に乗る”の意味だが、
“官職に就く、仕官する”ことを示す。

 《位が高くなると自分では歩かず馬車に乗りますから。だからここは
  “もう宮仕えはしない”という宣言です》

次の八句は、具体的な時間の過ごし方。
「~するに……を以てす」は漢文によく出て来る形で、下から訳すと
わかりやすい。
(八句の後半の)四句は暇な時間の過ごし方。
「或る時は~、また或る時は~」の形で、あちこち散歩をする。
ゆとりのある生活の始まる雰囲気。
「窈窕」は、深く遠い様子を表わす形容詞。
そんなときに目に映る景色の描写、感慨。
「栄に向ふ」は、花や葉が盛んになっていくようす。
「善す」は、“いいと思う、感心する”。

 ・・・

四段中の三段目が終わったところで、ちょっと中途半端になりますが、
分量的に今回はこのへんで。

次回は最後の段になります。

あと少し、まとめ的な文章を書いておく予定です。

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本誌では、「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(34)陶淵明(11)さあ、帰ろう「帰去来の辞」1」と題して、今回も全文転載紹介です。

本文にも書いていますように、分量的に一回ではむずかしく、中途半端ではありますが、第三段で区切りました。
次号をお読みの際、前段まではどうだったかしら、という読者のためもあり、今回も全文紹介です。

 ・・・

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※本稿は、レフティやすおの他のブログ『レフティやすおの新しい生活を始めよう』に転載しています。
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