中国の古典編―漢詩を読んでみよう(27)陶淵明(4)「園田の居に帰る五首(其三・四)」-楽しい読書363号
古典から始める レフティやすおの楽しい読書(まぐまぐ!)
【別冊 編集後記】
2024(令和6)年3月31日号(vol.17 no.6/No.363)
「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(27)陶淵明(4)
「園田の居に帰る五首 其の三・其の四」」
------------------------------------------------------------------
◇◆◇◆ 古典から始める レフティやすおの楽しい読書 ◆◇◆◇
------------------------------------------------------------------
2024(令和6)年3月31日号(vol.17 no.6/No.363)
「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(27)陶淵明(4)
「園田の居に帰る五首 其の三・其の四」」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
月末発行の「楽しい読書」は、古典作品の紹介です。
現在は、中国の古典から漢詩の名作を読んでいます。
今月の「中国の古典編―漢詩を読んでみよう」は、前回に引き続き、
六朝時代(東晋末~南朝宋初)の詩人・陶淵明(とう えんめい)の
「園田の居に帰る五首」の後半部分から「其の三・其の四」です。
(陶淵明 第1回)
2023(令和5)年9月30日号(No.351)
「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(24)陶淵明(1)「五柳先生伝」」
【別冊 編集後記】『レフティやすおのお茶でっせ』2023.9.30
中国の古典編―漢詩を読んでみよう(24)陶淵明(1)
「五柳先生伝」-楽しい読書351号
https://lefty-yasuo.tea-nifty.com/ochadesse/2023/09/post-b68999.html
https://blog.goo.ne.jp/lefty-yasuo/e/d371c2c2141932565db7fac1a67c1150
(第2回)
2023(令和5)年10月31日号(No.352)
「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(25)陶淵明(2)
「飲酒二十首」から「序」と代表作「其の五」」
【別冊 編集後記】『レフティやすおのお茶でっせ』2023.10.31
中国の古典編―漢詩を読んでみよう(25)陶淵明(2)
「飲酒二十首 其の五」-楽しい読書353号
https://lefty-yasuo.tea-nifty.com/ochadesse/2023/10/post-7e3a1c.html
https://blog.goo.ne.jp/lefty-yasuo/e/fb0ed419e609fae5ca4d419eb039fc2a
(第3回)
2024(令和6)年2月29日号(No.361)
「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(26)陶淵明(3)
「園田の居に帰る五首 其の一・其の二」」
【別冊 編集後記】『レフティやすおのお茶でっせ』2024.2.29
中国の古典編―漢詩を読んでみよう(26)陶淵明(3)
「園田の居に帰る五首(其一・二)」-楽しい読書361号
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
◆ 隠居生活の思い ◆
中国の古典編―漢詩を読んでみよう(27)
~ 陶淵明(4) ~
「園田の居に帰る五首 其の三・其の四」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
今回の参考文献――
『漢詩を読む 1 『詩経』、屈原から陶淵明へ』
江原正士、宇野直人/著 平凡社 2010/4/20
「九、達観を目指して――陶淵明の世界」より
(Amazonで見る)
●陶淵明「園田の居に帰る五首」
40歳過ぎで官職をなげうって、故郷に帰った陶淵明。
その隠居後の生活をうたった42歳頃の連作「園田の居に帰る五首」。
今回は、窮屈な生活から解放された開放感にあふれた第一首とは違い、
農業生活の悩みを実感するようになった思いがあらわれ始めたころの、
後半の三首から、第三首、第四首を紹介しましょう。
●「園田の居に帰る五首 其の三」陶淵明
・第三首目は、第一首と並んで有名になった歌だそうです。
そこでは、《「其の二」より少し深刻で、自分の経験不足で農作業が
うまくゆかない悩みを告白しています。》p.344
帰田園居五首(其三)
園田(えんでん)の居(きよ)に帰(かへ)る
五首(ごしゆ) 其(そ)の三(さん)
・前半四句は、《農作業の大変さを述べる。》p.344
種豆南山下 豆(まめ)を種(う)う 南山(なんざん)の下(もと)
草盛豆苗稀 草(くさ)盛(さか)んにして
豆苗(とうびよう)稀(まれ)なり
晨興理荒穢 晨(あした)に興(お)きて荒穢(こうわい)を理(おさ)め
帯月荷鋤帰 月(つき)を帯(お)び 鋤(すき)を荷(にな)うて帰(かへ)る
山のふもとに豆を植えたが
その畑には雑草ばかりはびこって、かんじんの豆が育たない
それで私は毎日、夜明けから畑に出て、
夜になるまで畑の手入れをしている
・後半四句は、《“農作業は大変だが、どうかうまくいきますように”と、
祈るような気持ちを述べます。五・六句めはたとえを使って、
計画通りにゆかないむずかしさを述べたもの》p.344
道狹草木長 道(みち)狹(せま)くして草木(そうもく)長(ちよう)じ
夕露沾我衣 夕露(ゆうろ) 我(わ)が衣(ころも)を沾(うるほ)す
衣沾不足惜 衣(ころも)の沾(うるほ)ふは惜(をし)むに足(た)らず
但使願無違 但(ただ) 願(ねが)ひをして
違(たが)ふこと無(なか)ら使(し)めよ
帰り道は狭く、余計な草や木ばかりが茂って邪魔をする
その上、夜露が私の服をぬらす
着物がぬれるのは、いやがるほどのことではない
ただひとえに、私の願いが背かれることのないようにさせてほしい
《夜の帰り道の描写であるとともに、農耕に生きる道の大変さのたとえ》
で、
《自分で選んだ農耕生活が今後もうまくゆくよう、それだけが願い》だ、
ということだろうといいます。
●「園田の居に帰る五首 其の四」陶淵明
帰田園居五首(其四)
園田(えんでん)の居(きよ)に帰(かへ)る
五首(ごしゆ) 其(そ)の四(し)
・《最後の二句に重みがあります。或る日、
子どもたちや甥を連れてピクニックに行った時に廃屋に出くわし、
そこから人生の無常に思いを巡らす――ちょっと深刻な展開です。》
pp.345-346
・第一段は、《隠居直後の正直な感慨か》。p.346
久去山沢游 久(ひさ)しくる山沢(さんたく)の游(あそ)びを去(さ)り
浪莽林野娯 浪莽(ろうもう)たり 林野(りんや)の娯(たのし)み
試携子姪輩 試(こころ)みに子姪(してつ)の輩(はい)を携(たづさ)へ
披榛歩荒墟 榛(しん)を披(ひら)いて荒墟(こうきよ)を歩(ほ)す
私はもう、長いこと山水を楽しむ遊覧から遠ざかっていて
森や野原を歩く楽しみなど、ぼんやりとしか考えていなかった
今日試みに、子どもや甥たちを連れて
雑木を掻き分け押し分けて、荒れた村里を歩いてみた
・第二段の「丘隴(きゅうろう)」を「墓場」ととる説もあるそうですが、
特別な行事の場合は別として、
《墓場にピクニックに行く、というのはどうかなあ。》p.346
徘徊丘隴間 徘徊(はいかい)す 丘隴(きゆうろう)の間(かん)
依依昔人居 依依(いい)たり 昔人(せきじん)の居(きよ)
井竈有遺処 井竈(せいそう) 遺処(いしよ)有(あ)り
桑竹残朽株 桑竹(そうちく) 朽株(きゆうしゆ)残(ざん)す
ぶらぶら歩き回る、小高い丘の辺り
どうやらここらには、昔の人の家があったようだ
井戸やかまどがその名残りをわずかにとどめている
農家につきものの桑や竹は、枯れ朽ちた株が崩れてしまっている
・第三段は、廃屋について、
《ちょうど通りかかった木こりにようすを尋ねます。》
その答えを聞いて、《一挙に無常観に突き落とされます。》p.346
借問採薪者 借問(しやくもん)す 薪(たきぎ)を採(と)るの者(もの)
此人皆焉如 此(こ)の人(ひと) 皆(みな) 焉(いづ)くにか如(ゆ)くと
薪者向我言 薪者(しんじや) 我(われ)に向(むか)つて言(い)ふ
死没無復余 死没(しぼつ)して復(ま)た余(あま)す無(な)しと
ちょっと尋ねてみた、通りすがりの薪を取る人に
ここにいた人たちはみんな、いったいどこに行ってしまったのですか
すると木こりは答えた
いや、みんな亡くなって、跡を継ぐ人もいないんですよ
・第四段、「一世」は三十年の意味。「当(まさ)に~べし」は、
「必ずや~なるであろう」と、《確実性の強い推量です。》
一世異朝市 一世(いつせい) 朝市(ちようし)を異(こと)にす
此語真不虚 此(こ)の語(ご) 真(まこと)に虚(きよ)ならず
人生似幻化 人生(じんせい)幻化(げんか)に似(に)たり
終当帰空無 終(つひ)に当(まさ)に空無(くうむ)に帰(き)すべし
三十年のうちに、朝廷も市場も、がらっと様変わりするという
その言葉はまったく正しい
人が生きるというのはまぼろしであり、
実態がないもののように思う、結局は無に帰するのであろう
「一世異朝市」という慣用句があったようで、「一世代三十年のうちに、
宮廷や市場が入れ替わるほどの変化がよくある」と、
世の中の移り変わりやすさと取る説もあるといいます。
《隠居後一年、“こういう人生を選択したけれどいいのかなあ”と
壁にぶつかった時にたまたま見た廃屋、
それが自分のこれからの人生に重なって、
あまり深い思想からではなしに、
ついこういうことを書き付けてしまったのか……。》p.347
時の流れというものは、無常なもので、
鴨長明『方丈記』の冒頭にもありますように、
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」と。
仏教の無常観というものの表れですが、
陶淵明の時代には、そこまでのものがあったかどうか、
宇野さんの解説では、
後漢の「古詩十九首」あたりから出ているといいます。
《“人生は朝露のようにはかないものだから、
夜じゅうろうそくを灯して遊ぼう、酒を飲もう”という考え方が
見られ、実はそこにも仏教思想が影を落としている
と言われています。》p.347
ただ、
《来世に望みを託するということはなく、
その当時の中国に人々の仏教の受け止め方なんでしょうか――
もしかしたら来世を考えない儒教の影響が
大きいかも知れませんね。》p.347
と。
●田舎生活の陰影
ここでは紹介しませんが、
「其の五」では、
悲しみを抱えたまま険しい道をたどり、山の水で足を洗い流す。
新たな酒と鶏を潰して近隣の人を呼び、酒宴を開き、朝を迎える。
というふうに、隠居し移住した地で新たな生活を送る、
その生活の起伏を描いています。
政治の世界を離れた寂しさも感じさせる反面、
世相の荒波を超えた日常的な田舎の生活――
新たな農家の生活に、日々の収穫の多寡に一喜一憂するような、
そういう生活の陰影も感じさせる詩編です。
・・・
次回は、隠居後二年で火事にあい、引っ越すこととなり、
その直後に使った詩「居を移す二首」を。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
本誌では、「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(27)陶淵明(4)「園田の居に帰る五首 其の三・其の四」 」と題して、今回も全文転載紹介です。
近年、UターンとかJターンとか、あるいは故郷とは別個に地方への移住をする人も増えていると聞きます。
田舎暮らしのスローライフというのでしょうか。
この陶淵明さんもそういう一人だったようで、都での役人の世界を捨てて故郷に帰って農業に励むという暮らし。
政治や役人の世界も大変でしょうが、農業は農業でそれはそれで楽しみもある反面、自然が相手では思うにならぬむずかしい面もあり、ある種の無常観にとらわれることもあったのでしょう。
酒でも飲まないといられない、ということも……。
まあ、どこで、どのような世界で暮らすにしても仲間がいれば、それで解消される部分もあるでしょうから。
・・・
*本誌のお申し込み等は、下↓から
(まぐまぐ!)『(古典から始める)レフティやすおの楽しい読書』
『レフティやすおのお茶でっせ』
〈メルマガ「楽しい読書」〉カテゴリ
--
※本稿は、レフティやすおの他のブログ『レフティやすおの新しい生活を始めよう』に転載しています。
--
Recent Comments