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2020.05.15

私の読書論132-本好きになる子供時代の経験とは?-松岡正剛、佐藤勝の場合(2)

★古典から始める レフティやすおの楽しい読書★ 2020(令和2)年5月15日号(No.270)「私の読書論132-
本好きになる子供時代の経験とは?-松岡正剛、佐藤勝の場合(2)」

 

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◇◆◇◆ 古典から始める レフティやすおの楽しい読書 ◆◇◆◇
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2020(令和2)年5月15日号(No.270)「私の読書論132-
本好きになる子供時代の経験とは?-松岡正剛、佐藤勝の場合(2)」
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 今回も、松岡正剛、佐藤勝の両氏の対論集

200515-yomutikara

 
 『読む力 現代の羅針盤となる150冊』中公新書ラクレ 2018/4/9

 から、両氏が本好き、読書好きになったきっかけや、
 のちに読書の達人になるに至るまでの
 子供時代の読書経験について

 「第一章 子どもの頃に読んだのは」

 からのぞいてみます。

  読書好きになる方法
  子供を読書好きにする方法
 
 が、導き出せるかもしれません。

 今回は、松岡さんの中学生時代の名伯楽について、
 それぞれの大学時代、および、本について、など。

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  ◆ 読書の名伯楽 ◆
  私の読書論132-
  本好きになる子供時代の経験とは?
    ~ 松岡正剛、佐藤勝 両氏の場合 (2) ~
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 ●松岡さんの名伯楽―両親
 ●松岡さんの名伯楽―小学校の先生

pp.28-30
 《松岡 そこでは、自分が選んだものと、他の人間が
    入れた本との「競い合い」も生まれるでしょう。
    本はそうやって読むものだ、
    という教え方をしたんです。
    (略)
    先生は、「他のやつが選んだものも読んでみろ。
    そうすると、友達のこともよくわかるし、
    その本のこともわかる」と言ってましたね。/
     実際、自分は深く考えもせずにリンカーンとか
    フランクリンとかの伝記を読んだのに、
    友人には鉱物図鑑に夢中になる奴がいる。
    どうしてそういうものをセレクションしたのか、
    ブラウジングしてきたのかというのは、
    子ども心にも興味深いのですね。
    そんなことを感じながら、友達の選んだ本も読む。
    「読み手ごと本を読む」というスタイルが、
    そのときにちょっとだけですが
    芽生えた気がしています。
  佐藤 それこそ「編集工学」の原点ではないでしょうか。》

 ●本とは何か

p.29
 《松岡 本って中身だと思われているけれど、
    著者や表紙の雰囲気や発刊時期や
    タイトルの付け方やサブタイトルも重要です。
    それらを含めて本と出会うべきなんですね。となると、
    本にはいろいろなナビゲーターやブラウザーがいた。
    読者はそんな体験を含んで養われれます。
    本は著者自身が「動かして」いるわけではなくて、
    版元がありエディターという人がいて、
    本棚に入っている。それらがブラウザーとして働いて、
    著者たちを登場させ、組み合わせている。
    そんな意識を、なんとなくその小学校の先生から
    植え付けられた感じがするのです。》

●松岡さんの名伯楽―中学校の国語の先生

pp.30-31
 《松岡 そういういろんなジャンルの本を読ませて、
    解説するという授業だったのです。
    それをやってわかってきたのは、
    知識というものはどこかに格納されている、
    必ず何かにファイリングされているのだということです。/
     つまり、誰かの思想というものは、
    どこかにムニュッと剥き出しになってあるのではなくて、
    先生の推挙や解説とともに一冊の本の中にある。
    (略)
    本の中に仕舞われていたものを、藤原先生が
    (略)
    僕らに語るわけなんですね。
    先生がなぜそれらの本を持ち出すのかといえば、
    そこにある思想や知識やその他諸々を、
    僕らに提起するためではないのかというふうに、
    思えてくるわけです。》

 ●同級生との切磋琢磨――松岡さんの場合
 ●同級生との切磋琢磨――佐藤さんの場合

pp.32-33
 《松岡 本がなければ、人は思想を話すことはできません。/
    もっと言えば、そもそもリテラシーというものは、
    口語ではなく文章語なんですね。ということは、
    リテラルな言語は本以外からはなかなか出てこない。
    なのに、そこをみんなネグって
    知ったかぶりになったことが、結果的に読書力を落とす
    原因になっているのではないか。
    佐藤流の書き方は、そんなことまで考えさせてくれる。》

 ●佐藤優:書評での引用について――

・佐藤優:書評での引用について――
書評を書く際の鉄則として、引用のない書評は書かない。

「引用のない書評は相当警戒しないといけない」

pp.39-40
 《佐藤 書評で引用するということは、
    そこでとても重要な判断を下しているわけですよ。
    言い方を変えると、あえて引用すべき部分を見定めて、
    それに対して、地の文で自らの論評を加えてゆくのが
    フェアで、読者にとっても親切な書評なのではないかと
    思うのだけれど、(略)
  松岡 (略)引用とか、あるいは本歌取りとか、転位、
    デペイズマンするということは、思想の書き換えに
    連なる重要な営みにほかなりません。
    そのときに「本歌」を隠したりすれば、
    その思想が信用を得るのは難しいでしょうね。
  佐藤 少なくとも、追跡できるスタイルにしないといけない。
    学術論文だったら、フットノート(脚注)で
    追跡できるんです。
  松岡 トレーサビリティーがのこりますよね。》

p.54
 《松岡 作者の顔のどこをカットアップしたか、
    というのが引用ですよね。
    その人とどういうアイコンタクトを取ったか
    ということがもろに現れますから、
    引用者のインテリジェンスが
    問われることになるのですが、
    その重要性があまり認識されなくなっている。
  佐藤 地の文には、オリジナリティーがある。
    他人の文章をカギ括弧をつけて持ってくるのは、
    コピーにすぎない。だから他人のテキストの内容でも
    極力地の文に丸めてほしい。
    そういう単純な発想に象徴されるように、
    私には、何か本を出す側が
    自縄自縛になっているように思えてならないのです。》

 ●マーキング読書法とノートの抜き書き

・松岡正剛:マーキング読書法について――

自分で入手した本に自在にマーキングする愉しみ。

p.50
 《佐藤 マーキングはとても大事な読書術の一つです。
    僕も『多読術』やイシス編集学校では、
    マーキング読書法を勧めています。読書にはそもそも
    コンデンセーションやコンプレッションが必要です。
    本自体も濃縮や圧縮が起こっています。
    本を読むということは、それを解凍する作業でもある。
    冷凍食品は、解凍しない限りは食べられない、
    味もわからない。それと同じです。マーキングは、
    それをさらにわかりやすく促進する方法ですね。/
     著者が、どんなコンデンスの仕方をしているのかを
    解けるかどうかも、読書の難しさであり、
    醍醐味でしょうね。》

 ●「読者に伝える側」の課題

<「伝えたい相手」のない思想は、つまらない>といいます。

pp.51-52
 《松岡 読ませるためには、読者の身体とか、表情とか、
    そのときの目つきとかが、
    まざまざとイメージできるような作り方をしないと、
    駄目だと思うのです。
    本に著される思想とか知識とかというものは、
    リフレクターが介在したり、
    何かと鏡像関係を結んだりすることで、
    大きく変わってくるものです。「伝えたい相手がいる」
    「読者の顔が見える」ことによって、
    初めてブラウザーを的確に働かせることができる。
    伝えたい相手がいないメディアは、やっぱりつまらない。
  佐藤 そう思います。なぜこんなにくそ忙しいのに
    大学の仕事をするのかと言えば、
    それを伝えたい学生がいるからなのです。
    全員かどうかは別として(笑)。》

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本誌では、「私の読書論132-本好きになる子供時代の経験とは?-松岡正剛、佐藤勝の場合(2)」と題して、少年時代から本好きにさせた先生や学友についての話と、二人の書評や読書法のことなどについて紹介しています。

それらに対する私のコメントについて、一つだけ紹介しておきましょう。

「●佐藤優:書評での引用について――」の節で書いた文章です。

オリジナルの文章というのは、
必ずしも個人のものと限らないような気がします。

 

名言とか格言とかいったものは、
人類共有の財産でもあるわけで、
それをそのまま引用できることが基礎的な教養でもあり、
そこからどう一歩踏み出した文章を書けるかが、
その著者の持つ筆力であり、才能でしょう。

 

引用はオリジナルであり、
その引用からの進化した一歩もまたオリジナルだ、
ということです。

 

私のコメント類は、本誌購読者のみのお楽しみです。
ぜひ、ご購読のほどを!

 ・・・ 

では、詳細は本誌で!

 

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