アメブロで「右利き?左利き? 」ブログネタ
またアメブロで「右利き?左利き? 」のブログネタが始まりました。
何年かに一度はやっているような気がします。
クチコミ投稿期間2014年07月09日~2014年07月23日
今回は「右利き?左利き?」の二者択一になっています。
私の考えでは、いえ、学者先生方の説でも、「利き手/側」は「強度の右利き」から「強度の左利き」の間にかけて連続して分布する性質のもので、単純に「右利き」と「左利き」の二者が存在するというものではないのです。
確かに半数ぐらいの人は「強度の右利き」でしょうけれど、それ以外の人がほぼ半数はいるのです。
それは「強度の左利き」から「弱い左利き」「弱い右利き」にかけての人たちです。
(具体的に言えば、使う手/側が動作により異なったり、利き手と利き足が違っていたり、といった人たちです。)
ところが大部分の人たちは、字を書くあるいは箸を使うといった日常生活で目立つ行為においてどちらの手を使っているか、といった外見的な行動だけでその人の利き手を決めつけているわけです。
この間に存在する中間的な傾向を持つ人たちは、生育環境的に強制的に右へならえさせられることが多く、自分自身もまた潜在的な利き手/側に無関係に後天的な要素も含めた現実的な使い手/側を持って、自身の利き手/側と判断し、最終的に「右利きである」と認識する傾向にあります。
その結果、世の中の分布が、一方的に右利き多数となっているわけです。
何が言いたいのか、と言えば、こういう認識の結果、自分の利き手/側が左右分裂的な状態にあり、その現実に困惑し悩む人がいる、ということです。
別に悩んでどうなるというわけでもなく、悩む必要もないことかもしれません。
しかし、それは自分の利き手/側が明確な「強度の右利きもしくは左利き」の人だから言えることで、当人にとってはこれは立場が不明という頼りなさにつながるわけでしょう。
「どちらか」だけではなく「どちらも」もあり得るのだ、ということを知って欲しいと思います。
単純に「右利きか、左利きか」を問うのではなく、「あなた(自分)にとってどちらがより得意か、都合がよいか、しっくりするか、その結果としてよく使ってしまうか」を問うべきなのです。
*アメブロ「レフティやすおの作文工房」より転載しています。
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