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2013.04.11

真面目な私とあなた―夏目漱石『こころ』~NHK100分de名著2013年4月

「NHKテレビ100分de名著」2013年4月は、夏目漱石『こころ』です。

第1回 4月3日放送 私たちの孤独とは
第2回 4月10日放送 先生という生き方
第3回 4月17日放送 自分の城が崩れる時
第4回 4月24日放送 あなたは真面目ですか

○NHKテレビテキスト「100分 de 名著」
4月 夏目漱石『こころ』 [語り手 姜 尚中]
悩むことに、救いがある!
自由と孤独に生きる“現代人の自意識”を先駆的に描いた『こころ』。
他者との関係性に悩む登場人物たちの葛藤を読み解きながら、モデルなき時代をより良く生きるヒントを探る。

2013年3月25日発売 定価550円(本体524円)

 

 

こころ (新潮文庫)
こころ 坊っちゃん (文春文庫―現代日本文学館)

 

放送は見ていなくても、一言何か書きたくなるのが、こういった著名な古典を扱う番組の魅力かもしれません。

毎回のゲスト講師にどんな人が選ばれているのか、いつも気になるところです。
今回はなんと、《ベストセラーとなった「悩む力」「続悩む力」で独自の漱石論を展開した政治学者の姜尚中さんを語り手に迎え、「こころ」を読みときます。》(「プロデューサーNのおもわく」より)とあります。

名前はお聞きしていますが、実際どういう人か存じません。
著書もお読みしていないので、まったく情報なしです。

それだけにどういうお話になるのか、楽しみといえば楽しみでしょうね。

 

 ●高校の夏休みの宿題

私の『こころ』の思い出と、今回改めて読み直した印象とを書いておきます。

私にとって夏目漱石は、「不幸な出会い」でありました。

最初に出会ったのが本書『こころ』でした。
高校2年か3年の夏休みの読書感想文の宿題でした。

新潮文庫をもらって帰ったのですが、これが大変でした。

 

当時の私は年間30冊程度は本を読んでいました。
当時人気作家だった北杜夫の純文学系の本も読んでいました。

本を読むのは好きだったのですが、得意というわけでもありませんでした。
おもしろ系の本―今風に言えば、エンタメ系でしょう。

海外の翻訳もののSFやミステリ、冒険ものなど読んでいました。

なぜそういうものを読むようになったか。
一言で言いますと、漢字が苦手だった、ということが大きな理由です。

当時私が買えるような本といえば文庫本でした。
そして文庫本では、現代表記(新仮名づかい・新字体)で発表された最近の作品以外は―夏目漱石のような近代文学は、(たぶん)原文のままの旧仮名づかい・旧字体でした。

そのため、古典や名作名著を読みたくても、私のような国語力の低いものには、敷居の高いものでした。

そこで、戦後の日本の現代ものか、現代表記の翻訳文である最近の海外の翻訳ものを主に読んでいました。

 

そんな私には、文庫の漱石は荷の重いものでした。
それでも何とか読み続け、読み終えました。

はっきり印象に残っているのは、話の内容が不快だったこと、高等遊民と呼ばれる「先生」のような身分はいいなあ、と思ったことでしょうか。

「K」という人物にしろ「先生」にしろ、社会に背を向けているようで、自分勝手で、どうも胡散臭い感じです。
「先生」も(結果として働かずに食う生活を考案するようで)「私」を不良に誘うような人であり、「先生」と呼ぶに値しないような人物ではないでしょうか。

以後、夏目漱石の作品を手に取るまでには、『坊っちゃん』まで二十数年の歳月が流れました。
『こころ』との出会いが不幸というのは、こういう背景があってのことです。

 

 ●今回再読の印象

今回改めて読んで感じたことは、表記は別にして、非常に読みやすい作品だということです。

表記に関しても、今回読んだ本は、平成16年の改版で、現代表記に改められたものです。
難読漢字と思われるものには振り仮名が付けられ、漢字表記の接続詞・代名詞等をかなにしたものです。

そういう読みやすさは別にしても、新聞連載小説ということで、連載の一回ごとに意味深な展開を見せ、読者を引っ張っていきます。
「先生」の謎に満ちた過去を「私」と会話から小出しにほのめかしてゆきます。

ミステリとしても読めそうです。

そして、第二部にあたる「中 両親と私」で、「私」の問題を取り上げます。
「先生」に憧憬する「私」もまた、“明治の知識人”としての問題にぶつかります。

それは、古い共同体に所属する親たちと、近代という新たな都市環境の中で生きる知的エリートとしての「私」の立場の違いです。

ただし、この「私」のその後の“冒険”は語られませんでした。
先生の遺書を手にして列車に飛び乗ったところで、「私」の物語を終えています。

このあと、死につつある父を捨て、死んでしまった(であろう)「先生」を取った「私」がどのような生き方を選んだのか、その結果どうなったのかは、語られずに終わっています。

「私」は「先生」の決断に対し、批判するにしろ肯定するにしろ何らかのアクションを取るはずでしょう。
そこまで書かれて初めて、本来の書かれるべき小説があったのではないか、と思われます。

始めから読んでゆくと、どうしてもそう受け取れるのです。
ところが、「先生の遺書」で終えられています。

単なる「先生」の秘密の種明かしで終わっています。

そこに何か作者の読み違いがあったのでしょう。

本来書きたかったのは、この後の変化ではなかったのか。
しかし、それはあまりにも大きな問題でありすぎた。
簡単には綴れないものであった、と言えないでしょうか。

 

 ●以前感じた不快感とは?

今回読み直して、最初に読んだときの不快感は何だったのか、もう一度考えてみました。

 

当時の私は、北杜夫さんにあこがれ、あんなふうに文学とはいかなくても、文章家として生活できれば、楽しいかなあ、という気持ちでいました。
そういう私には「先生」的高等遊民は、なかなか都合のいい生き方に思えました。

好きなことをして働かなくても暮らしていけるのなら、結構毛だらけ猫灰だらけじゃないか、と。
その上、好きな女性とも結ばれて、万々歳!

「K」との「お嬢さん/奥さん」をめぐる関係にしても、元々自分が先に目をつけていたのだし、結果として「K」が死を選んだのも彼自身の弱さであり、なんら問題ではないと言えるのではないか。
所詮は負けた方が悪いのであって、その責任といっても、自己満足に過ぎないのではないか、と。

... 真面目(まじめ)な私には、それが私の未来の信用に関するとしか思われなかったのです。結婚する前から恋人の信用を失うのは、たとい一分一厘(りん)でも、私には堪(た)え切れない不幸のように見えました。/要するに私は正直な路(みち)を歩く積りで、つい足を滑らした馬鹿(ばか)ものでした。... 》『こころ』新潮文庫 p.299

本当にバカものです。

単に親友であるからというだけで、彼の死を恋の相手を抜け駆けで奪われたせいだと決めつけ、自責の念にかられるのは、手前勝手な気がしました。
しかも、それを理由に妻にも明かさず自分勝手にふるまい、ムダに生きたあげく、自殺を選ぶのも自分勝手の利己主義以外のなんでもありません。

読んでいて不快になるのも理解できます。

 

古代ローマの哲人、皇帝ネロの家庭教師で政治家であったセネカ『心の平静について』(『生の短さについて 他二篇』大西英文/訳 岩波文庫 2010.3.16)でこんなふうに書いています。

さて、しかし、個人的な悲しみの原因を取り除くだけでは何の益もない。なぜなら、人間存在そのものへの憎悪が心を占領することが稀ではないからである。純朴さがいかに稀有のものか、無辜というものがいかに知られざるものか、[...] 恥ずべき行ないで輝いている野心などのことを考えたとき、精神は暗黒の夜へ導かれ、[...] 暗闇が鬱勃として精神を覆う。だから、われわれは心の向きを変え、俗習のすべての悪徳を、憎悪すべきものとではなく、笑止なものと思うようにし、ヘーラクレイトスよりは、むしろデーモクリトスに倣うようにすべきなのである。 [...] 前者にはわれわれ人間のすることはすべて哀れなものと、後者には愚かなものと映ったのである。それゆえ、万事を軽く考え、万事に柔軟な精神で耐えるべきである。生を嘆くよりは生を笑い飛ばすほうが人間的なのである。》(p.120-121)

続けて、

しかし、さらによいのは、世の習いや人間悪を、笑いにも涙にも陥ることもなく、穏やかな心で受け入れることである。他人の災厄に心を痛めることは際限のない不幸であるし、[...] 他人の災厄を喜ぶことも非人間的な快楽だからである。》(p.121-122)

遺書の末尾に「先生」は、

... 私は妻には何にも知らせたくないのです。妻が己れの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存して置いて遣りたいのが私の唯一(ゆいいつ)の希望なのですから...》『こころ』新潮文庫 p.327

というのですが、本当に愛している人で大切な人であれば、正直に話すべきでしょう。

中野孝次/著『セネカ 現代人への手紙』(岩波書店 2004.5.27)は、セネカ晩年の道徳書簡集「道徳についてのルキリウスへの手紙」のなかから、著者の心に残る文章を選び、解釈をつけたものです。
そのなかに、次のような言葉が紹介されています。

8 なぜ誰も自分の過ちを告白しないのか? それは彼がまだその過ちの中にとらわれているからだ。夢の話をすることができるのは、夢から覚めた者だけだ。自分の過ちを告白したのは、心が健康になったしるしだ。》「<手紙53>海にとびこむ」p.150

とあります。

同じく「<手紙9>真の友情と贋の友情」によりますと、セネカには《自分をこの上なく幸福だと思えない者は、たとえ世界を支配していようと、不幸な人だ。》(p.57)という言葉があるそうです。
まさに「先生」はこの典型でしょう。

「K」にしろ「先生」にしろ、どうも人生を狭く見ているように思うのです。
そして自分の殻に閉じこもりすぎです。
もっとまわりのことも見るべきではないか、頼れる身寄りがない、と言っても現実には同居する人もいるわけで、ご近所や学校なども含めれば、まったく無縁とも言えないのです。

それを<近代人の孤独>か何か知りませんが、自分から蟻地獄に堕ち込んでいるようです。
自分で自分の不幸を演じているように思えるのです。

... 私は仕舞にKが私のようにたった一人で淋(さむ)しくって仕方がなくなった結果、急に所決(しょけつ)したのではなかろうかと疑がい出しました。そうして又慄(ぞっ)としたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じように辿(たど)っているのだという予覚が、折々風のように私の胸を横過(よこぎ)り始めたからです。》『こころ』新潮文庫 p.318

『セネカ 現代人への手紙』には、こんなくだりがあります。

3 無私の愛情については深い理解をもって対さねばならない。そしてときには、たとえもっともな理由がいくら押しよせてこようとも、共に生きる者の献身的な愛情のためには、苦しくともいのちの息を呼び戻し、舌の上にとどめておかねばならぬことがある。まっとうな人間の為すべきことは、楽しいあいだだけ生きることでなく、必要とされるあいだ生きることなのだから。妻が、友人が、少しでも長く生きてくれと切望しているのに、それを顧みず、それでも死ぬと言い張る男は、弱虫だ。家族の者の仕合せがそれを要求しているとき、魂はその命令に従わねばならぬ。単に死にたいときばかりでなく、すでに死に始めたときでも、それを中止し、家族のために図らねばならない。》「<手紙104>セネカと妻パウリナ」p.262

セネカは皇帝ネロから死を命じられた時、妻パウリナは「私も死にます」と言ったという。
この夫婦愛について、モンテーニュは感銘を受け、『エセー』「三人の良妻について」(第二巻第三十五章)の中で取り上げている、と言います。

「先生」も何かしら理由はあるにしろ、妻を愛しているのなら、別の方法もあったのではないか。
もっと心を開いて相手を受け入れれば…。

まあ、そうすればお話が終わってしまうのですけれど。

 

夏目漱石という人は、高等遊民などという人物ばかり登場させて、浮世離れしたあらぬことを書く自分勝手な人だというのが、当時の私の印象だったように記憶しています。
少なくとも、他の作品を読む気にさせないものだったのです。

今も私にはそのような印象が抜けません。

 

偶然見た4月10日の第二回放送分「先生という生き方」で、講師の姜尚中氏は―
「先生」は「私」の中に自分の思想を受け継いでくれるDNAを持った存在、思いを託す人が見つかったので死んだのだ
―というように解説されていました。

... 私の過去は私だけの経験だから、... それを人に与えないで死ぬのは、惜(おし)いとも云われるでしょう。... ただし受け入れる事の出来ない人に与える位なら、私はむしろ私の経験を私の生命(いのち)と共に葬(ほうむ)った方が好(い)いと思います。実際ここに貴方という一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで済んだでしょう。... ただ貴方だけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目(まじめ)だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいと云ったから。》『こころ』新潮文庫 p.172

漱石は、お手本とする理想となる人物が見つからない時代だからこそ、真面目に人生の教訓を伝えあおうとする「先生」と「私」という二人を介して師弟関係というものを表現しようとしたのだ、とも。

なるほど、そういう見方もできるのか、という気もします。

 

【追記】2013.5.7 ━━
姜尚中氏の著書『悩む力』(集英社新書 444C 2008/5/16)を読んでみました。

 

この本は、《誰にでも具わっている「悩む力」にこそ、生きる意味への意思が宿っていることを、文豪・夏目漱石と社会学者マックスウェーバーを手がかりに考え》る、というものです。

その中で著者・姜尚中氏は、漱石の『こころ』について、人が自ら死を選びうる自由について書いたけれど、それ以上に

人が他者とのつながりを求める切実な気持ちについて、書きたかったのではないでしょうか。

と書いています。(「第八章 なぜ死んではいけないか」p.158)
この辺が、姜尚中氏の言う「先生」と「私」の師弟愛といった見方なのでしょう。
━━

 

それでも私は、こういう結末が嫌いです。
やはり、人間は生き延びてナンボ、だと思いますね。

 

谷沢永一の著書『ローマの賢者 セネカの知恵―「人生の使い方」の教訓』(講談社2003.11.11)にこうあります。

過去を嘆きの種にしてはならない。楽しかったこと嬉しかったことを、しっかり記憶にとどめなければならない。幸せであったことに感謝すべきである。生きておればこそ、あの友この友に出会えた。真摯に数えあげてゆけば、たとえぽつりぽつりであっても、自分がどれほど恵まれているかがわかるであろう。》p.65

最後に「先生」も書いています。

私は私の過去を善悪ともに他(ひと)の参考に供するつもりです。... 》『こころ』新潮文庫 p.327

「先生」自身善とも悪とも受け取れるものだと考えていた、という証拠でしょう。

先に挙げた『ローマの賢者 セネカの知恵』にはこんなことも書いてあります。

過(あやま)たざらんとばかり警戒する思想家が、人間を冷たく醜く評価してばかりいるのに抗して、愚かで情に狂う人間にも、そうならざるをえない事情があるのだと、弁護士の役割を引き受け始めたのが文藝の発生であろう。》p.55
文藝は悖徳(はいとく)の世界であり、アカンタレの楽園である。文藝の発生によって、駄目人間にも言い分のあることが、巧みな表現によって堂々と活写されるに至ったのである。》p.57

漱石は、そんな近代的知識人のアカンタレぶりを巧みに描いてみせたのかもしれません。

 

 

 

 

 ●「殉死」

今回再読して、改めて気付いたことは「殉死」を取り上げていることです。
物語を終えるための方策という意味もないとは言えません。

しかし、「先生」が自分の人生に区切りを付けたい、そのきっかけにしようとした、という事実は動かせないでしょう。
そこには、夏目漱石自身の区切りの意味もあったのではないか、という読み方もできるでしょう。

 

彼の生涯を年譜で見ますと、再三神経衰弱や胃潰瘍といった病気に苦しめられていた事実が浮かびます。
ロンドン留学時代には、発狂した、といううわさも流れたと言います。

それはどういうことなのでしょうか。
彼はどうも精神に何らかの負担を感じていたようです。

 

漱石は、ロンドン留学から帰国後、東京帝大の英文科講師となります。
前任者はご存知ラフカディオ・ハーン小泉八雲です。
それ以前の漱石は、第五高等学校の教授でした。
ハーンは以前ここにも勤めていました。

結果として漱石はハーンのあとを追う形になっています。
そして、帝大の講師となってもハーンとの講義内容の違いから、一部の学生には不人気だったと言われています。

その後、彼は小説を書き人気を得、教職を去り、朝日新聞に入社し新聞に小説やエッセイを連載します。
それはまるで実作者であったハーンの影を追うような形とも見えます。

西洋人であったハーンに対して、何かしらコンプレックスを持ったという可能性もあるでしょう。
それは日本人が持つ西洋人へのものでもあったはずです。

しかしなまじっかエリート知識人であるがゆえに、一般庶民とは異なる次元での負担となったのではないでしょう。
近代日本人エリートであるがゆえの古い時代への憧れと、一方では近代化のために脱皮しなければという要求との間で、揺れるものがあったかもしれません。

 

“明治高等遊民のエゴイズム(利己主義、自己中心主義)”や“明治知識人の、近代人の精神の孤独”の問題を描いたと言われたりしますが、ここには「殉死」という問題も登場します。
天子様がお隠れになり、それに殉じて死を選ぶ乃木大将のような旧世代の生き方、というものが。

漱石もまた、明治という時代と共に生きた作家であると言われます。
古いものは去り、新しいものに取って代わる過渡期の時代であった明治―。

その明治という時代の終わりとともに、彼の中に自らの死という何かしら予感めいたものがあったのでしょうか。

 

 ●作家としての限界

今の私たちの感覚で言えば、50歳はまだまだ働き盛りであり、これからのという年齢でしょう。
しかし、彼はその年で亡くなっています。

ですから、彼の作品を読んだ年配の読者の中には、漱石は人間を知らない、人間心理というものの理解が足りない、こんなふうに人は動かない、という人もいます。

 

私ももう彼の年齢を超えました。

ただし私は人生経験が少ないので、年齢ほどの人間通ではありません。
多分漱石のほうがず~っと経験も豊富で、人生についても考えているでしょう。

ですから私が、具体的にどう、と指摘することは出来かねます。

何度も繰り返しますが、それでも話としては面白いけれど、やはり彼らの行動は人間として物足りない、青臭い行動であるという気がします。

 

本来ならば、当然この後の「私」の行動にこそ、真の人生の重さ、近代人の悩みといった問題が浮き彫りにされてくるのでは、という気がしてならないのです。

そこまで書けなかった漱石に、物足りなさを、作家的弱さといったものを感じないではいられません。
所詮は、「猫―」のような人を少し上から見下ろす皮肉屋的な作家に過ぎなかったのでしょうか。

あるいは、そこには、新聞連載小説というものの限界があったのでしょうか?

 

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こころ
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『心』予告

 

 

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