子供に自分で選択できる自由の実感を:メルマガ『親力で―』から
今、親野智可等先生の人気教育メルマガ『親力で決まる子供の将来』で、「親力147・・・子どもの人生は子どものもの」が連載されています。
※『親力で決まる子供の将来』
・2006/9/20・・No686~「親力147・・・子どもの人生は子どものもの」
・最新号
今、マスコミで盛んに持ち上げているスポーツ界の親子鷹とも言うべき人たちの「○○家の子育て」に関して、教育者として注意を促されています。
これらはあくまでもひとつの成功例であり、その裏には数々の報道されない後悔が渦巻いているものであり、そのまま受け取るのは危険だというのです。
その失敗例として、奈良の家族3人放火殺人事件や、絵が好きだった男の子の例、なんでもよくできた女の子の例を挙げておられます。
習い事をいっぱいやっていた少女は、五年になった時、学校に来なくなりました。
それまで、全てにおいて模範的ないい子で「いや」とか「やめたい」などと言ったことがなかったのが、です。
親の方には、子どもに無理をさせているとか押しつけているという意識は全くなかったのです。
しかし、とうとう限界が来てしまったのです。
そして、こういう子が今たくさんいる、と親野先生は言います。
親は気をつける必要がある。
無理に過剰な要求をしているつもりがなくても、結果的にそうなっていることもある、と。
ここには「親の強い思いの押しつけ」、「子どもの意思、特質、能力の無視」とのふたつの問題点がある、と指摘されています。
なぜそんなことになるのか、その理由は―
「自分の夢や願いを子どもに託す親がいる」、「それがこの子のためだと親が思っている」から。
例え愛情から出たものであっても、これらは「子どもの人生を奪うこと」なのです、と。
「子どもは、親の強い思いを見せられると、なかなか「いや」と言えないものなのです。
親を愛していますし、親を喜ばせたいとも思っています。
親をがっかりさせたくないという気持ちは、子どもならみんな持っています。
ですから、「いや」と言わないからといって、だいじょうぶということにはならないのです。」
・・・
この連載は、まだ続いています。
私の感想を、先生への返信から引用しておきます。
------
「子どもの人生は子どものもの」毎回興味深く拝読しております。
私はつい何事も左利きに結び付けて考えてしまうのですが、今回のテーマもまた左利きの子供に対する教育に当てはまります。
右利きの親御さんが、左利きのお子さんに右手を使わせようとする気持ちになるのは、その子のその後の人生において、左手を使うより右手を使うほうが便利で、日常生活が楽になるのではないか、という考えによるようです。
特に書字において、その考えが根強くあるように思われます。
他のことは左手使いでもよしとする人でも字だけは右手でないと書きにくいのではないか、なかでも毛筆習字に関しては、これは絶対左手では書けない、右手でないときれいに書けない、という考えが強いようです。
しかも、左利きの親御さんのなかにもこの考えを持つ人がいます。
自分が左手書字で苦労したから、子供は小さいときからやれば慣れるだろう、と右手書字を強いる人がいます。
子供の意見を尊重しているという親御さんのなかにも、本当に子供の自発的な意思を確認できているかどうか、はなはだ怪しい場合もあるような気がします。
親は子供の笑顔を見るのが好きです。
しかし、子供というものは、親が子の笑顔を見たいと思う以上に、親の喜ぶ顔を見たいものなのです。
そして、親の求めにできるだけ応えたいと思うものです。
私のもとに持ち込まれた相談のなかにも、お父さんが強く右手を使うように言うので、というお子さんがいました。
最終的に、お父さんが、もういいんだよ、自分の使いたいほうの手を使えばいいんだよ、と子供さんに話して解決に至ったと聞いています。
私自身もそうでした。
私は学校の先生になりたかった時期がありました。
でも、経済的な事情もあり、自分の知っている世界に進んで欲しいという親の希望もあり、私も物作りは好きな方だったので、大学はあきらめて工業高校に進みました。
15歳は子供ではないと思われるかもしれません。しかし、今の私から見れば、本当に子供です。
子供が自分の意志を貫くのはなかなかむずかしいものです。
今私は、結局のところ、次善の道を進むのは最善の道が閉ざされてからでもよいのではないか、と考えるようになりました。
まずは自分の一番を求め、それがどうにもならないとわかってから、次善の策を練れば良いと思います。
>なぜなら、子どもの人生は子どものものだからです。
>誰にも自分の人生を自分で決める生得の権利があるのです。
>子どもの内に秘めている意思を引き出してやることこそ、親のやるべきことです。
まさにその通りだと思います。
「子どもの人生は子どものもの」という考えを持って、正しく子供の教育に当たって行けば、このような問題もクリアできるのではないか、と私も考えています。
なかなかむずかしいことですが、必ずやらねばならないことです。
ヘレン・ケラーの自伝に、教育についてこんなことが書いてありました。
「生徒が自ら進んで勉強するためには、勉強中も休憩中も、「自由」は自分の手の中にある、と感じなければならない。そして、自ら勝利の喜びと敗北の失望感を味わってはじめて、嫌いな課題でも本腰で取り組み、単調な教科書の勉強も、勇気を持って楽しくやり抜こう、と決心できるのだ。」(『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』小倉慶郎訳 新潮文庫)
子供の人生の教育も同じことだと思います。
自分で選択できる自由がある、という実感を子供が持てなくてはいけません。
日本の子供は、特に大人の顔色をうかがう傾向が強い、と子供の発育を研究している専門家は言います。
これは、心に留め置く必要がある、と思います。
また、思いのたけを長々とつづってしまい、失礼いたしました。
では、続きを楽しみにしております。
・『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』小倉慶郎訳 新潮文庫(2004/07)
※本稿は、gooブログ「レフティやすおの新しい生活を始めよう!」に転載しています。
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Comments
こんにちは、
親力のメルマガからこちらにはじめてきました。
ヘレンケラーの言葉、
「自由は自分の手の中にある」
に感動いたしました。
自分のことをふりかえってみますと、
両親はかなり私の自由を尊重してくれたいい親でしたが、
それでも自由を感じたのは就職してからでした。
まさにおっしゃるように「子供というものは・・親の笑顔がみたいもの」なのでしょう。
ありがとうございました。
Posted by: ラビット | 2006.10.02 09:33 AM
ラビットさん、コメントありがとうございます。
ホントのところ自分でも、どこまでが自分自身の自由意志によるものかどうか判断がむずかしい部分もあります。
そういうグレー・ゾーンもあるのは事実ですが、自分の自由意志であると思い込める、という実感の部分があれば、いいんじゃないかと思うのです。
人のために的な発想からではなく、ホントに自分のためと思い込めるなら、それでいいんじゃないか。
それが、「自由」は自分の手の中にある、ということなんだ、と思うのです。
それゆえ、もし失敗しても自分の責任ですからあきらめもつくし、やり直しもできる、ということでしょう。
Posted by: レフティやすお | 2006.10.02 10:17 PM
こんばんは。突然の質問をお許しください。
私の子どもは右耳が聞こえません。
今6歳ですが、どうも左利きのようです。
食べるのも、書くのも左手を使います。
が、私は右で書くようにと言っています。
なぜなら、将来、電話を持ってメモを取るときに、左耳に受話器を当てて、左手で書きにくいのではないかと、私の母から言われたからです。
不便のある子どもに、できるだけ不自由のないようにと、やらせています。
でも、実は迷いながらそうしていた時に、こちらのブログに出会いました。
私はどうしたら良いと思われますか?
Posted by: M.M | 2006.10.20 11:37 PM
M.Mさん、質問ありがとうございます。よくおききくださいました。子供さんのためにもホントによかったと思います。
私にとっては、不思議な発想だ、というのが正直なところです。
極端な言い方をすると、あなたのお子さんは年がら年中電話でやり取りされているのでしょうか。
学校で勉強するときも電話で勉強されるのでしょうか。
電話の受話器を持つとき以外は、全く支障はない、のではないでしょうか。
一生のうち電話でメモを取る時間はどれぐらいでしょうか。
一日のうちどれぐらいでしょうか。
こういうのを本末転倒というのだと私は思います。
もし人の話を聞くときは右耳でなければだめだ、といわれたらどうでしょう。
この子は右耳が不自由なのです、といってもどうしても聞いてもらえなかったら、それに従うのでしょうか。
左利きというのは、言ってみれば、右耳は少し聞こえるけれど左耳の方がよく聞こえる、といったものと同じです。
それでも聞こえにくい右耳を使え、というのでしょうか。
それとも左耳を使えばいいよ、と教えるのでしょうか。
受話器を持つのは右手でも持てるでしょう。
右手に持って左耳に当てるのは、ちょっと不便かもしれないけれど、それだけの理由でもっと不便な非利き手を使え、というほうがよほど子供にとっては苦労なことだ、と私は考えます。
いかがでしょうか。
電話機はハンズフリーにすることもできます。スピーカーに出すこともできますし、イヤフォンにすることもできるはずです。
機械はいくらでも変えることができます。いつでも変えることができます。
でも子供の利き手は、子供のときに育てておかなければ、一生不器用なままになります。
あなたは自分の子供をそんな子供に育てたいのでしょうか。
そんなはずはないでしょう。
字を書くことは勉強の基本です。
これが十分できなければ、勉強もすすみません。
勉強ができない子供に育てたいのでしょうか。
そんなはずはありませんね。
他人の意見は所詮他人の意見です。祖父母であろうと同じです。
本人は忘れられています。
いや本人のことを考えてのことだ、とおっしゃるかもしれません。
しかし、本人の一生にとって一番大事なことはなんでしょうか。
電話でメモを取るときに便利なことでしょうか。
それはささいなことです。
本人のありのままの姿を受け入れてあげてください。
右耳が不自由なら左耳を使わせてあげてください。
同じように、右手より左手が得意なら左手を使わせてあげてください。
それでもし本人が不便を感じるようなら、本人が自分で努力して改善の方法を見つけるはずです。
子供を信じて、見守ってあげてください。
Posted by: レフティやすお | 2006.10.21 02:19 PM