五十にして「論語」を読む
思えば私は、五十になった昨年初めて『論語』を読むようになりました。
きっかけは、新たに友人となった人物が『論語』を好きだと聞いたからでした。
昔中学時代に国語の教科書で、「巧言令色、鮮なし仁」などは習った覚えがあります。他にもいくつかありました。
しかし、高校は工業高校で古典を学ぶ機会もなく、その後社会人になってからも、古典中の古典であり、東洋の智恵、人生の書ともいうべきものと聞き知ってはいましたが、元来漢字が苦手な私は、漢文を原典とする『論語』を手に取ってみようという気になれませんでした。
ところが不思議なもので、年々歳々古典と言うものを読んでみようという気持ちになってきました。十年ぐらい前からポツポツと古典文学などに手を出すようになりました。
少しは人生というものがわかり始めたのかもしれません。
そして、この出会いです。
初めはおそるおそる読書案内的なもので、『論語』のエッセンスにふれてみました。
するとなかなかおもしろいのです。実人生の中の場面場面にいろいろ当てはめることができたりします。
そして心から『論語』はすごいと感じたのは、中野孝次『論語の智慧50章』(潮出版社・潮ライブラリー 1998年刊)でした。
この本の初めの章で中野氏は、『論語』の冒頭の一文(「子曰く、学びて時に之を習う。亦説ばしからずや。…」というあれである)について、これから勉強を始めようという人に向って、一番初めに学問の楽しさをこれだけはっきりと書いている本は他にない、と書いています。本当にそうだ、と感心したものでした。
実は子供の頃、私は勉強が好きでした。
でも、人前で勉強が好きという勇気がありませんでした。子供は皆、勉強は嫌い、学校で好きな時間といえばお昼休みと体育の時間などとされていました。そこで、勉強が好きなどとは口が裂けても言えない雰囲気でした。勉強が好きなどと言えば、がり勉野郎のように言われてしまいます。でも、ホントは好きだったのです。知らないことを知ること、わからないことを教えてもらえるのはうれしいものでした。
後年、勉強が好きで楽しかったのは、内容が理解できていたからだと気づきました。先生の言うことがチンプンカンプンなときはその勉強が嫌いになるものなのです。
『論語』を読んだ今、私は勉強が好き、と自信を持って胸を張って言えます。
話を戻して、『論語―』です。
しかも、昔時代劇の寺子屋の場面で耳慣れたあの文(シ、ノタマワク…)を目にすると、こちらも自然に門前の小僧が習わぬお経を読むように、すんなりと入ってゆけるのです。
リズム感がいいのです。
「声に出して読みたい日本語」なんて本が流行っているようですが、まさにそんな感じです。
こんな風にして、『論語』のおもしろさに目覚めた私は、少しずつ岩波文庫版をはじめ、関連本を色々と読むようになってゆきました。
それらについては、またの機会に―。
++その後の『論語』に関する記事 ++
・2005.7.5 五十にして「論語」を読む ―その三― 渋沢栄一 論語の読み方
・2005.6.24 五十にして「論語」を読む ―その二― ビギナーズ・クラシックス 中国の古典『論語』加地伸行
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