慣れと適応は左利きの敵?
左利きの人で「左利きだからといって特に不便を感じない」という人がいます。
実際には左利きの人は、右利きの人と同じレベルで、同じ快適さで暮らすことはできません。さまざまな分野で微妙に不便を強いられています。煩雑になるので逐一例を挙げることはしませんが、ごくごくささいなことから非常に重大と思えることまで、日常の生活の中でいやというほど出会っています。
(くわしくは2.21の記事「左利きのここが不便、ここが不満」や「レフティやすおの左組通信」表紙で実施している左利きアンケートの第2回「左利きで困ったこと(物理的バリア編)」、その結果発表と意見をまとめた「左組通信2」〈2004年4月〉などをご覧ください。)
(もちろん、この「右利き社会」も万全ではありません。まだまだ右利きの人にとって完全なものにはなっていないようです。右手一本で生活するには不便な要素はまだ残っているでしょう。左利きの私にとっては幸いな面もありますが…。)
とはいえ、私自身もそうそういつもいつも不便で不便で仕方ないと思って暮らしているわけではありません。
しかし、それはかなりの左利き用品を持っていること、自宅などでは左利きの自分に合わせて配置を工夫している事など、自分でできる範囲の改善を施していることがひとつ。
さらに周りの人が私の左利きを知っていること、それなりの年齢に達したことで周りの人が左利きについてあれこれ差し出口を挟むことが少ないことなど、が理由として挙げられるかもしれません。
そしてもうひとつの理由としては、日常生活においてある程度「右利き社会」に慣れていることがあるでしょう。
そこで問題になるのは、この慣れ、状況への適応です。
これは生きてゆく上でこれは非常に大切な要素ではあるのですが、行過ぎると進歩を止めることになるように思われます。
人は不自由であるがゆえに、それを克服しようと物事を改良し、文明を進歩させ、人類という種を進化させてきたのではないでしょうか。
たとえば道具―。
左利きで不便だから、なんとかしようと左利き用品を作ってきたのが、西洋の発想ではなかったか、と私は思うのです。
しかし日本人は手先が器用といわれます。それゆえに、いろんな道具を工夫するより、得意な手先の動きでカバーし、それぞれ用途に応じた道具をこしらえるという作業をしてこなかったのではないでしょうか。
いや、それ以前に形式にこだわるゆえに、周りとの調和に気を使うゆえに、自分を殺し、周りの標準に合わせてきたのではないでしょうか。利き手に合わせるのでなく、使い手を合わせて来た。(合わさせられて来た?)
右へ倣え、してきたのではないでしょうか。長いものには巻かれろ。和を持って尊しとなす。…。
また、左利きの人にこういう意見があります。
生れてきたときからそうだったから、特に不便を感じない。そういうものだと思っていたから、不便だとは思わない。―というものです。
私はこの意見を一方的に否定するものではありません。そういう面があることは確かに事実であり、この認識も有用なものです。
しかし、ある意味で非常に不幸な人だな、とも感じます。
たとえば、洗濯機を知らない人が、たらいと洗濯板での毎日の手洗いに不便を感じるでしょうか。
ずぼらな人は、もう少し何とかならないかと思うかもしれませんが、まじめな人はこれが正しいやり方と思って、何も不便を感じないかもしれません。
しかし、洗濯機を知っている人には、つらい仕事に映るかもしれません。
同じように、右利き用の道具を使って生活することに慣れている右利きの人は、言ってみれば「洗濯機で洗濯する人」です。
一方、左利きの人は「洗濯板とたらいで洗濯する人」です。慣れているから不思議に感じない。不便さを感じない。
さて、この人は幸せなのでしょうか。不幸せなのでしょうか。
私は「貴方は不幸せな人だ」と教えてあげたい。「洗濯機をいうものがあって、これを用いればずっと楽に手をかけずに済むのだ」と教えてあげたい。
道具の持つ機能の素晴らしさ、左利きにあった道具を使うことで得られる快適さを教えてあげたい。
右利きの人たちが自分にあったものを使い、自分にあった構造の社会でいかに快適に生きているか、を。
ところが、当の右利きの人の中には、その自分が置かれている快適な状況に気付いていない人がいる。それが当たり前だと思っている人がいるのです。
先人がいかに苦労して作り上げたのかに感謝することなく、無条件に受け入れている。
一方で、そういう自分の幸運を棚に上げ、左利きの人の不平の声に対して甘えるなという人もいるのです。
なんと矛盾したことでしょう。
中には、左利きだからといって左手を使うのではなく、右手を使って慣れれば良い、という右利きの人もいます。
奢れる者は久しからず、というのですが、さてどうなるものやら。当分右利きの天下は動かないようです。
慣れ、適応は大事な人間の能力ですが、それのみに頼るのは人間として生きる方法としてはレベルが低いと思います。
自分を慣らすことより大事なこともあるということをもう一度確認しておきたいと思います。
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