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2004.07.31

迷惑の量

左利きの問題を考えるとき、問題はふたつ在る。

ひとつは、ソフトの問題―人の心、周りの人の左利きの人に対する考え方、利き手に対する理解の度合い、左利きをどう思っているのか、左利きに対して悪い感情を持っているのか、ということ。偏見、差別といった意識の有無など。
ふたつ目は、ハードの問題―左利き用や共用できる道具や機械、設備がどれだけ整備されているか、ということ。

ハードの面は、ソフトの問題が解決されれば、それにつれて改善されてゆくだろう。

ソフトの面がまず問題になる。しかしこちらもだんだんと理解されつつある。
ところが、今ひとつ浸透しないのは、公の教育の場で明確な指導方針が示されていないからではないか。基本的に、その場その場で各担当者がそれぞれ自分の考えに従って指導しているだけなのではないか。これを改め、特に年配者に多い、左利きに対する偏見や間違った認識をなくさせていかねばならない、と思う。

そして、左利きの人自身も、自分に自信を持って自らの存在をアピールしていかねばならない。
これは障害者の問題でも同じことだ。


 障害者の中には「人に迷惑をかけるな」という教えを重荷に感じる人が少なくないらしい。現状で障害者が町に出ようとすれば、人の手を借りねばならない場面が往々にしてある。そんな時先程のことばが頭をかすめる。自分は人に迷惑をかけているのではないか、と。

「人に迷惑をかけるな」というが、人というものは生きている限り人に迷惑をかけるものだ。たったひとり山の中、あるいは無人島にでも住まない限り。人は社会生活を営んでいるのだから、人と関わらずには生きていけないのだ。だからこそ、人に「必要以上」の迷惑をかけるな、ということだろう。

 しかし、人は皆それぞれ持って生れたものが違う。また生きているうちに、事故にあったり、病気になったりして、生活のレベルが異なってくる場合がある。当然人との関わり方も違ってくるだろう。人に迷惑をかけることも多くなるだろう。それは仕方のないことで、病気や怪我がなくとも、年老いてくればからだは衰えてくるのだから。

「迷惑の量」というのが人によって変わってくる。いわゆる健常者と障害者では違ってくるだろう。単に背の低い人と背の高い人でも違うだろうし、声の大きい小さいでも違うだろう。
それぞれ各人には人に与えてもよい「迷惑の量」――許容量というものを持っていて、その枠のうちで、生きていけばいいのではないか。
 
左利きも同様で、右利きとではさまざまな違いがある。ものに左右の別がある限りついてまわるもので、右を立てれば左が立たぬ、という事態も起こってくる。
 そこで、人はそれぞれ「迷惑の量」が違うのだからと認め合って、お互いに協力し合えばよいのである。
そうすれば平和に共存してゆけるのではないだろうか。

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