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2004.04.07

再び「(左利きの)矯正」を死語にしよう―生きた言葉として使わないようにしよう

先に(2004.4.2) 「(左利きの)矯正」を死語にしようと書きましたところ、へそ美人さんのコメントやひでゆきさんのココログからのトラックバック「あえて「左利き矯正」という言葉を使います。」という反響がありました。
ただ、私の考えがもう一段練れていなかったのと、表現に足りないところがあったせいでしょう、今ひとつ私の真意が伝わっていないように思われます。そこで再度書いてみます。

結論:「(左利きの)矯正」を「生きた言葉」として使わないようにしよう。

かつて「(左利きの)矯正」と言う言葉が使われていたが、というふうに「過去における歴史的表現」として使用する。

例文:私は左利きの子に右手使いを試みること(かつてはこれを「(左利きの)矯正」と呼んだ)を否定するものではありません。

今読んでいる『新・脳の探検』下巻(フロイド・E・ブーム他著中村克樹/久保田競監訳 講談社ブルーバックス

 

―ちなみに「利き手と大脳半球」というコラムがあります。左利きについて簡単に知りたい人は、立ち読みできる分量ですので一度のぞいてみてください。(本屋さん、ごめんなさい!)文化の影響についての記述では「右手でするように強制します」という表記が見られます。―

での統合失調症の記述は、見出しで「統合失調症(精神分裂病)」と記載されています。そしてこの項目の最初の部分で訳注が入り、「2003年に日本精神神経学会では精神分裂病を統合失調症とよぶことにしました」とあります。そして以後はすべて「統合失調症」の一語のみで記述されています。(別項目で記述されているときは「統合失調症(精神分裂病)」)

これに倣ってもよいのではないでしょう。
成人病も生活習慣病に名称が変更されました。実態を正確に反映していないという理由で。テレビの健康番組などで紹介されるときは、「生活習慣病、以前は成人病と呼ばれていた病気ですが」といった説明がされています。

トラックバックをいただいたひでゆきさんの主張されるところは、

Webを使った発言の場だから、「左利き 矯正」などの検索語でサーチエンジンを使う人のためにあえて使う、というものです。

私はWebについてもコンピューターについても素人ですから詳しいことは知りませんが、機械的検索ではその言葉が「生きた言葉」として使われているか、「死んだ言葉」として使われているかに関わらず、拾ってくれるのではないでしょうか。

多少わずらわしくても、上記の例に倣って「過去における歴史的表現」として、括弧書きの注意書きとして封じ込めてもよいのではないでしょうか。

各ファイルの冒頭でのみ1箇所このような併記をすれば、以後はその注意書きを省いてもそのファイル自体は拾ってもらえるのでは、と考えています。
それともこの方法では技術的に無理なのでしょうか?

もう一点の言葉だけ言い換えて安心したくないからに対して。

私は単に言葉の言い換えだけで満足しているものではありません。
これは過渡期におけるひとつのプロセスです。
小さな一歩かもしれません。しかし確かな歩みになるはずです。

私の最終目標はあくまで左右共存社会の実現です。
そのために途中ブランクはありましたが十数年前から、新聞を発行したり小冊子を発行したりしてきました。確かに世間でその活動を知っている人は非常に少なく、一般の方々には信じていただけないかもしれませんが…。
しかし、これからも一時的に諸事情で休むことはあるかもしれませんが、左利きあるいは利き手の問題を自分のライフワークとして活動してゆくつもりでいます。

(さてさて自慢話は別にして、本題です。)

私がこのたび、「(左利きの)矯正」という言葉を現代において「生きた言葉」として使わないようにしたいという考えは、次代を担う子どもたちにマイナスのイメージを与えたくないからです。

子供たちにはよいイメージを持って育って欲しい、のです。子供の心は明るく清く育てたい、ということです。
左利きの子どもに左利きに対してマイナスのイメージを与えたくないのです。

私が小さい頃は残念ながら左利きに対してマイナスのイメージがいっぱいある中で育ってきました。当時はそれが左利きに対する平均的な反応でした。
それゆえに今でもかなりのコンプレックスを持っています。
これはいいことではありません。何かにつけてマイナスの反応しかしない人間になってしまいました。

(さて私のことは横に置いて、本題です。)

先の文章でも書きましたように、「(左利きの)矯正」という言葉は、現代においては不適切な用語です。これはどなたもご理解いただけると思います。

(ひでゆきさんもそのサイトで利き手は「直すべき癖や習慣」ではないわけで、本当は矯正という言葉は不適当なのですがと書いておられます。)

言い換えれば言葉の「誤用」です。
誤りを正して、左利きに対して誤ったイメージを与えないようにしたいのです。

単に言葉狩りをしようとか、この言葉に対する好き嫌いや快不快でいうのではないのです。
近年の子育て相談においても、この言葉を相談の依頼者側が使うことはあっても回答者側が使うことはまれになっているようです。

世の中には実際の左利きについてご存知でない方がまだまだおられます。わが子が左利きと判り初めて左利きの人間を見たと言う方もおられます。
「(左利きの)矯正」の「矯正」という言葉がどういうものか知ったときに、生半可な知識でさも右使いが正しいと判断する人が現れないとも限らない、と思うのです。(杞憂に終わればよいのですが。)

従来一般名詞として使われてきたから状況が変わってもそのまま使い続けるのは、私には単なる怠慢に思えます。より適切な言葉を考えるのが言葉を道具とする人の取るべき態度だと考えます。
過去にいろんな言葉が実情に合わせて置き換えられてきました。この言葉だけを例外として放置する必要はありません。

私はこの言葉を使うなというのではありません。過渡期においては併用し、この言葉を使う人一人一人が注意書きを添えて言いかえを促進していただきたいと考えるのです。

ひでゆきさんは社会が変われば言葉はあとからついてくる」という考え方を私も信じています。と書いておられます。

しかし「言葉から始まる」ということもあります。

ひでゆきさんにももう一度考えていただければ、うれしいのですが…。
いえ、もちろん、ひでゆきさんだけではありません。
何も考えていない人が大勢おられます。
というより、問題であることをご存じない人、気付いておられなかった方と言うべきでしょうか。

皆様にももう一度この機会に、この問題を頭の片隅で結構ですから、気にかけていただければうれしく思います。

言い換え表現について 1 善悪正邪あるいは正誤といった内容を伴わない、中立な言葉
2 失敗したのは努力が足りなかったせいだ、といった気持ちにさせない言葉
3 感情を刺激しない言葉
4 日常使うような平凡な言葉
5 子供にもわかるような平易な言葉
といった点に注意すればいいのではないでしょうか。

私は、
右手を使ってみる 右手使いを試みる 右手使いを試行する ぐらいでよいのではと考えています。
「練習」はセーフかもしれませんが、「訓練」はやめたほうがよいように思います。

亜希子先生に歌って欲しい―
♪よ~くかんがえよ~ ことばは だいじだよ~

*参照: ・『レフティやすおの左組通信』
右手使いへの変更(左利き矯正)について―レフティやすおの左利き私論 2―

 

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Comments

お久しぶりです。
レフティやすおさんのココログも順調に更新されているようですね。

私は利き手矯正に関しては、野球中継の「併殺打」「盗塁」という言葉のように、小さい子供も見ているテレビ番組で刺すだの殺すだの盗むだの言っても、それが直接犯罪に結びつくとは思わないように、中身からっぽの「きょーせー」という音だけの世の中にするよう、いろいろ行動するほうを優先させようと思います。
ただし「私はそうします」と言っているだけで、「皆さんもそうしましょう」とは言いません。
レフティやすおさんはご自身のお考えを周りに広めたいようですが、それもいいかもしれないと思っています。

ココログの成果が見える日を楽しみに、これからもおじゃまさせていただきます。

Posted by: ひでゆき | 2004.04.10 12:59 AM

ひでゆきさん、こんにちは。
コメントありがとう。
お互いの考えがよりはっきりと分かり合えたと思います。
書いてきてよかったなと実感します。

確かにそれもひとつの考えです。色を抜く、というか言葉を空洞化しようという作戦ですか。
ただ閉じられた世界での用語として確立しているものと、これには距離があるように私は感じます。
いずれ3回目を書くつもりでいます。
ただ一言だけ書けば―

ひでゆきさんのように、この行為の不当性を理解した上で否定的文脈の中で生きた言葉として使う場合は、我慢できないことはないのです。
しかし、不当性の理解はともかく、この言葉の不適切さを理解せず、無思慮に生きた言葉として使用した上で「現状では矯正に賛成です」と行為そのものを肯定されると、非常な憤りを感じるのです。
左右共存状況が実現していない現状では、便法としての右手使いを否定しない、というのが私の考えです。
それゆえ、このような肯定的文脈の中で使われてしまうと、行為そのものを言葉が正当化してしまう危険性がある、と思うのです。
だからこそ、危険を犯さないために使用すべきではない、と考えるのです。

私は「強制」はしませんが、多くの人が同じように考えて行動してもらえたらうれしく思います。
現実は、かなりそういう傾向になってきています。相談では、この言葉を使わず、ただ「右手を使ってみる」といった表現が増えています。
この言葉を過去の事象以外で今一番よく使っているのは、左利きサイト関係の人かもしれません。

二言になってしまったので、ではまた。
 *メールアドレス不用でご利用いただけるように設定変更しています。皆様、お気軽にコメントを! お待ちしています。

Posted by: レフティやすお | 2004.04.10 07:15 PM

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