「転びキリシタン」あるいは「隠れキリシタン」のように
以前、手のない子について書いた文章を読んだことがあります。
彼は生まれつき「棒のような手」しか持っていません。しかし、それを当たり前のことだと思っているため、手のないことの不自由さを感じていないというのです。
「手がないので不自由でしょう?」というのは、ふつうの人の勝手な想像にすぎないというのです。
私たち左利きの人も、自分が左利きであることを、当然のことと受け止めています。決して自分のことを変だとか奇異だとか考えたことはありません。たまにそんな気にさせられるのは、周りの目がそうさせているからでしょう。
左利きであること自体に、不自由さを感じたことはありません。不便だと感じるのは、あくまでもこの社会との関わりの中で生活してゆく過程においてです。
左手も右手も対称形を成しています。鏡に映してみればどちらがどちらか区別の付かない人もいるでしょう。左手を使うことも右手を使うことも、本質においてはなんら違いはありません。右利きの人が当然のこととして右手を主に使うように、左利きの人は左手を主に使います。
生れたときから右利きの社会で暮らしてきた左利きの人々は、なんの疑いもなく、ありのままにこの世の中を受け入れてきました。
しかし残念ながら今現在この社会は、右利きの人達が生活するのに便利なように作り上げてきた、右利きの世界だったのです。
人類が始めて道具を手にしたとき――このときから利き手が始まった、といわれている――から、右利きの人たちにとってはごくごく自然な発想である、右手右足といったからだの右側にある器官を優先する思想に基づいた、文明や文化を堂々と築き上げてきたのです。
そんな世界で、少数の存在である左利きの人たちは、あるときは、右手を使うように「矯正」という名の強制を受け、大部分の人は「転びキリシタン」のように、訓練を受けた特定の作業のみ右手で行うことのできる「右利きもどき」のような、「隠れキリシタン」ならぬ「隠れ左利き」としての生活を強要されてきました。
一方「転ばなかった」左利きの人は、強情で我の強い、わがままな、協調性にかける性格の「アウトロー」という烙印を押されることも間々ありました。
さらに、「転んだ」人も「転ばなかった」人も社会のさまざまな場面で右利き用の道具や機械、それらの配置など右利き社会への適応を余儀なくされている、のが現状です。
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