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2012.06.30

笑いの原点~ギリシア喜劇:アリストパネス「女の平和」他

―第84号「古典から始める レフティやすおの楽しい読書」別冊 編集後記

★古典から始める レフティやすおの楽しい読書★
2012(平成24)年6月30日号(No.84)-120630- 笑いの原点~ギリシア喜劇:アリストパネス「女の平和」他


本文でも書いていますが、ギリシア喜劇は喜劇の源流とも言うべきもの。
喜劇の何が・どこがおもしろいのかというその原点が示されている、と言えるでしょう。

まずは、やはり時代の風潮を揶揄する、政治や文化とそれに関わる人物等への批判風刺というテーマ。
言葉の遊びとしての洒落や地口、有名な詩・劇のパロディといった技法。
下ネタという古今東西共通の人間の性状に関する話題。

そういったもののすべてがすでにここに見られます。

そういう意味でも現代につながる要素が十分あり、読むに値するものがあります。

今のお笑い芸人さん、喜劇を目指す役者さん、お笑いをネタにする書き手の皆さんにも是非読んでいただきたいと思います。

*本文で取り上げた本ほか:
『ギリシア喜劇 I アリストパネス(上)』ちくま文庫 1986.7.29
『ギリシア喜劇 II アリストパネス(下)』ちくま文庫 1986.8.26


『女の平和』アリストパーネス/原作 オーズリー・ビアズリー/挿絵 佐藤雅彦/翻訳 論創社 2009.5.20
『ギリシア喜劇全集〈3〉アリストパネース III』岩波書店 2009/1/27

*本稿は、アメブロ『レフティやすおの作文工房』より「笑いの原点~ギリシア喜劇:アリストパネス「女の平和」他」を転載しています。
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2012.06.28

左利きプチ・アンケート第69回バラエティ番組~左利きで生きるには 週刊ヒッキイhikkii318号

先週の無料左利きメルマガ『左利きで生きるには 週刊ヒッキイhikkii』第318号の告知です。

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第318号(No.318) 2012/6/23「<左利きプチ・アンケート>第69回 テレビのバラエティ番組の左利き情報は?」は、
久しぶりの<左利きプチ・アンケート>「第69回 テレビのバラエティ番組の左利き情報は?」です。

最近も(5月21日)フジテレビ系『HEY!HEY!HEY!』で
木村カエラさんの悩みに対する左利き動画として、
お笑いコンビ2700さんによる右利き左利きビデオが紹介されたり、

3月7日にも、同じくフジテレビ系バラエティ番組
『ホンマでっか!?TV』で「寿命のヒミツ」をテーマに、
左利き短命説を取り上げていました。

※『レフティやすおのお茶でっせ』記事:
5月21日『HEY!HEY!HEY!』木村カエラへの左利き動画
ホンマでっか!?TV 左利きの寿命:おおたわ史絵氏「有意差がない」発言のトリック

テレビのバラエティ番組の中での左利き情報は、筆者のように真剣に左利きの問題と取り組む者から見ますと、あまり期待できるものになっていないように感じます。

ときに、左利きの人に対しても何かしら“主流派に属する右利きの人”“上から目線”のようなものが感じられる気がします。

あなたはこれらのバラエティ番組における左利き情報に対してどのように思われますか。

アンケート詳細と投票は本誌で。

*6月28日の結果:

a(右利きの人)○ おもしろくて役に立つ ..... 3
b(  〃  )△ 参考にはなるが納得いかない 0
c(  〃  )× まったく話にならない ..... 0
d(中間的な人)○ おもしろくて役に立つ ..... 1
e(  〃  )△ 参考にはなるが納得いかない 1
f(  〃  )× まったく話にならない ..... 1
g(左利きの人)○ おもしろくて役に立つ ..... 0
h(  〃  )△ 参考にはなるが納得いかない 3
i(  〃  )× まったく話にならない ..... 0

現在の結果


※ 関連<左利きプチ・アンケート>:
第13回 05.1.30 推理物のテレビ・ドラマの〈左利きが犯人〉をどう思いますか
第30回 06.7.2 あなたの知りたい左利き情報はなんですか
第43回 07.7.29 タレントさんの左手使いは気になりますか
第56回 08.8.24 左利きや利き手の情報をどこから仕入れますか?
第57回 08.9.28 左利きの著名人・タレントに興味がありますか?

 <左利きプチ・アンケート>目次

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※本稿は、gooブログ「レフティやすおの新しい生活を始めよう!」に転載しています。
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2012.06.27

私とクリスティ:『七つの時計』-ファンクラブ機関誌から

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私が若いころから参加している
アガサ・クリスティ・ファンクラブの機関誌
『ウィンタブルック・ハウス通信』83号

(この機関誌は半年に一度ですから、もう40年以上になります!)

(私の参加は少しあとなので、40年前後でしょうか。)

(アガサ・クリスティとは、イギリスの推理小説家で、ミステリの女王と呼ばれた人。
映画『オリエント急行殺人事件』や『ナイル殺人事件』他、NHKBSのテレビドラマでおなじみの名探偵ポアロやミス・マープルの生みの親。

(数藤会長のアガサ・クリスティ・ファンクラブサイト

に、私の書いた文章が掲載されました。

この機関誌には、<私をクリスティ・ファンにした決定的な一冊>というコーナーがあります。
これは、機関誌もいよいよ最終号間近ということもあり、会員の皆様がクリスティのどのような作品を読んだことがきっかけでクリスティにハマったかを尋ねるコーナーです。
その一文として掲載されたものです。

ファンでない人にはよく分からない部分もあるかもしれませんが、転載しておきます。

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私とクリスティ:『七つの時計』(麗風亭(レフティやすお)康男)

 まずは私にとって、記念碑的なクリスティ作品を順に列挙させていただきます。
(1)最初の一冊:お子様版の『雲をつかむ死』―航空機内の殺人を描くポアロものの長編
中学校の図書室で見つけた推理小説のシリーズ(クイーンの『エジプト十字架―』などがあった?)の中の一冊。確か、『ABC―』とのカップリングだったか?と思います。
(2)一般向けの最初:『ポワロの事件簿1』―創元推理文庫版のポアロものの短編集
高校時代、兄が持っていた創元推理文庫の中から、比較的薄くて読みやすそうなものとして、これを選びました。
(3)最初のポケミス:『親指のうずき』―二十数年ぶりに復活した元“青年冒険家”トミーとタペンスもの
当時(1970(昭和45年)刊、ハヤカワミステリ文庫発刊前の時代)―いや、今もあこがれの翻訳家・深町眞理子さんの本。高校生には少しお高いのですが、深町先生の訳でクリスティが読めるというのと、何と若い頃に創作した若き主人公たちを探偵に起用した“老後編”というクリスティのサービス精神に惹かれたことが大きかったのです。そして、実はもう一つの今回の本題にもつながる事実があるのですが…。

 さて、いよいよ、私をクリスティ・ファンにした決定的な一冊です。
 それは、『七つの時計』(クリスティ文庫版、深町眞理子訳)―私が読んだのは中村能三先生(氏は、クリスティの実質的に最後の作品とも言うべき、トミーとタペンスものの第五弾『運命の裏木戸』(1973年刊)の訳者でもあられます)訳・創元推理文庫版『七つのダイヤル』。

 ポケミス版『親指のうずき』の巻末解説「四十六年後のトミーとタペンス」で小林信彦氏は、

クリスティーは、乱歩のいわゆる“トリックの大家”であるが、同時に、伝記小説のモダン化といった意味での、ストーリー・テラーとして抜群の才能があることは、いうまでもない。だが、「七つの時計」の“語り口のトリック”と、最近の作品傾向とは【関係がある】(【】内原文傍点―引用者注)のではないか。その【関係】(原文傍点)は、「第三の女」の一部が「シタフォードの秘密」に似、「終りなき世に生れつく」が別な或る作品と似ていることより、重要なのではないか。
と書かれています。
 氏は、クリスティーはその初期においては“本格物”と冒険小説を交互に書いていたが、回復期の病人が徐々に杖を手離してゆくように冒険小説を書かなくなっていった、と指摘されています。
 この冒険小説を作る物語の才能は、別の形で“本格物”に流れ込んで行き、他の“本格物”の作家たちがたどった衰弱の道から逃れて、クリスティーが現代に生き残っている秘密ではないか、というのです。

 前置きが長くなりました。私がこの作品をしてクリスティ・ファンにした決定的な一冊とするのは、この冒険小説ぶりにあります。
 若き主人公“冒険娘”バンドル他、若者たちとバトル警視の物語―。
 当時高校生の私は、ちょっとマンガチックな印象のあった(ぴったりなでつけた髪、卵型の頭、ピンとした口ひげに始まり左右対称にこだわり、灰色の脳細胞を自慢する)初老の名探偵ポアロより、論理を武器にしながらもいざとなれば颯爽と愛車を駆って犯人を追いつめてゆく青年探偵クイーンのほうに魅力を感じていました!
 そんな私にとって、この作品は、がらりと印象の異なるクリスティ作品でした。(今なら、やれるじゃないかとでも言いたくなるところでしょうか?)
 高校生の私にちょうど合う冒険に満ちた探偵物語―。まさに“青春冒険ミステリ”の世界です!
 以後、私は最初にあげた初ポケミス『親指のうずき』を読み(先の小林先生の解説にうなずきながら)、当時『ミステリマガジン』に掲載されていたジョン・ディクスン・カーのコラム「陪審席」にあった、『アクロイド―』の前にこのトリックを試していたという冒険もの『茶色の服の男』(先日、深町先生の新訳本で読み返しました!)を読み、トミーとタペンスの最初の冒険『秘密機関』(これも新訳本を読みました。“ヤングアドヴェンチャラーズ”に訳語が変わっていました!)を読み、『エヴァンズ―』を読み―というふうに、一連のクリスティの冒険ものを読み継いでいきました。
 もちろん、その間にもいくつかのポアロものも読んでいたのですが…。
 今時なら赤川次郎さんの小説を読みふける中高生にも似ているでしょうか。

 名前を見ていただければわかりますように、私は数藤会長と同名(字は違いますが)。
同名のよしみでお便りを出し、この会にも参加するようになりました。早々、表紙のない残りものでわるいのですが、と『WH通信』を送ってくださいました! 感激の一言でした。
 そう、いつしか、私はクリスティ・ファンに変身していたのです。
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もちろんクリスティのミステリにあって、上記の冒険ものは傍流に当たります。

名作としましては、やはりポアロやミス・マープルが活躍する作品―『スタイルズ荘の怪事件』に始まる名探偵ポアロものや、『火曜クラブ』に始まるマープルものが、主流です。
しかし、この文章では私がクリスティのファンになったいきさつとして、クリスティのあまり振り返られることの少ない冒険もののおもしろさを紹介してみました。


私のおススメ<クリスティ>作品:
【冒険もの】
『七つの時計』(クリスティー文庫版、深町眞理子訳)
『親指のうずき』(クリスティー文庫版、深町眞理子訳)
『茶色の服の男』(クリスティー文庫版、深町眞理子訳)
  

『秘密機関』(クリスティー文庫版、嵯峨静江訳)
『なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?』(クリスティー文庫版、田村隆一訳)
 


(文中「クリスティ(英語表記 Christie)」の表記が、「クリスティ」「クリスティー」が混在しています。
これは、出版社により表記がまちまちであることによるものです。筆者はファンクラブ機関誌の表記に従い、「クリスティ」と表記しています。)

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2012.06.21

名作~推理小説編8『霧の旗』松本清張:左利きで生きるには 週刊ヒッキイhikkii317号

先週の無料左利きメルマガ『左利きで生きるには 週刊ヒッキイhikkii』第317号の告知です。

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第317号(No.317) 2012/6/16「名作の中の左利き~推理小説編8~『霧の旗』松本清張」は、
「名作の中の左利き~推理小説編8~『霧の旗』松本清張」です。
左利きを扱った推理小説として有名な松本清張の名作『霧の旗』を紹介します。

社会派推理小説の代表的な作品です。

無実の罪で獄死した兄の復讐を遂げる若き女性と彼女に翻弄される弁護士の物語です。

実はこの兄の事件の新犯人は左利きの人間であったことを、弁護士は犯行の状況から推理して気付くのですが、すでに済んだこととして葬り去るのでした。
そしてその後に続く弁護士の愛人が絡む殺人事件で、兄の事件を依頼して来た女性が重要人物として浮かびます。
この人生の皮肉。

左利きが犯人だというその根拠はいかに…。

詳しくは本誌で。

*本誌で取り上げた本:
『霧の旗』松本清張(新潮文庫 昭和47.1.30発行/平成15.9.10 41刷改版)


・松本清張傑作映画ベスト10 5 霧の旗 (DVD BOOK 松本清張傑作映画ベスト10)
―1965年の山田洋次監督、倍賞千恵子主演の映画

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※本稿は、gooブログ「レフティやすおの新しい生活を始めよう!」に転載しています。
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2012.06.19

幼少時の記憶から【左利きライフ研究家のできるまで】第2回

【左利きライフ研究家レフティやすおのできるまで】第2回

第1回は、小学校入学時に担任の先生から“左利きを公認された”というところまで書きました。
今回はもう少し話を戻して、私の記憶にある限りの幼少時代のお話を―。


 ●昭和30年代の時代風潮

小学校入学までは、結構いろいろなことがありました。

私が生まれたのは1954(昭和29)年。

戦争が終わって10年近くが過ぎたとはいえ、当時はまだまだ戦後の真っただ中という時代です。
日本の国は貧乏で国家予算もやっと兆の位に届いたかどうかぐらいだったでしょう。
どこの家も似たり寄ったりの「ウサギ小屋」で、道路も大半は舗装されず雨が降ればぬかるみ、三輪トラックが活躍している…。

思想的にも生活信条的にも、戦前の考え方・物の見方が色濃く残っています。
戦後の民主主義が大いに流行っていたとはいえ、生活の個々の状況には戦前の風習の名残りが漂っていました。


左利きに対する考え方・物の見方も同様です。

例えば現在マスメディアでは、「差別(用)語」として使用を制限されているような言葉も、現役の言葉として誰もかれもが無意識に使っていた時代でした
差別意識を持って使っている人も当然いましたが、まずそういう言葉による「差別」という考え自体が十分に浸透していない時代であったと言えるでしょう。

「差別」「人権」というものに関する意識と言いますか、認識ができていなかった、もしくは不十分だった時代と言えるでしょう。

前回も書きましたように、左利きは右利きに「なおす(直す・治す)」べきもの、「矯正する」ものとされていたのです。
その典型的な例が、以下に記す秋山孝氏の場合です。


 ●秋山孝『左手のことば』から

デザイナーでイラストレーターで現・多摩美術大学教授でもある、1952年生まれの秋山孝氏の『左手のことば』(日貿出版社 1990.6)というとイラスト集があります。


擬人化された「左手」がペンを持っているイラストが表紙を大きく飾っています。
(本書の書名について、「左手で書いた絵もしくは図」は「左手の発した言葉」であるという意味であるようです。
もし左手がしゃべれたら、いろいろ話したいことがあることでしょう。
以前メルマガ『左利きで生きるには 週刊ヒッキイhikkii』で紹介しました、ベンジャミン・フランクリン「左手からの手紙」や、阿刀田高「兄弟」のように。)


その本の巻末に英語と対訳になっている著者インタヴューが掲載されています。
そのなかで、著者が左利きで、子供の頃(1950年代)に右手を使うことを強要され(当時の言葉で言えば、「矯正」指導を受け)苦しんだ、という話が出てきます。

非常に興味深い内容ですので、長くなりますが、全文引用します。

ぼくが小学校1年生のころに、ぼくは昭和27年生まれだから……昭和33年前後かな?。まあ昭和30年代のはじめにいろいろな人に左ききというのは、一般人のモラルに反していて、いやしいものであるというふうに教えを受けて、直すように強要されたというのがあって。でもぼくは左手のほうが使いやすいしね、細かい仕事をする、つまり字を書くのも絵を描くのも左手のほうが非常にうまくいくと。でもぼくの先生たちは直させるのに何と言ったかというと、文字は右利きの人にしか描けない図形であると。そうすると草書体が書けないだとか、英語は左から右へ行くものだから直しなさいだとかいわれたんだけれども、ぼくはそれに対して納得ができなかった。使いやすい手を替えて不自由な手を持つということにものすごく抵抗を感じたし、本当に納得がいかなかった。そこでぼくは左手を使っているのがそんなにみっともないのかと思って鏡に映しながら手を書いてみたら非常にスムーズにね、自然な感じで鏡に映っているわけ。で、また学校に行くと先生がのぞき込んで「左手を使うのをやめなさい!」と怒鳴る。「右利きに変えなさい、それは片輪なんだよ」ってね。その片輪ということもぼくには理解できなかった。心の底からの理解や納得がないことはやってはいけないよね、子供でも。悪くいうと頑固なんだけれども理解して納得できれば頑固は直るわけ、でも納得できなくてぼくは使ってる。先生の考えの中での「左手は悪」という既成概念に対する抵抗だね。

結局、彼は左手使いを通します。
今では当たり前と感じる人も多いかもしれませんが、当時ではこれは非常につらい面があったと思います。

この右手使い(「矯正」)指導に関しては自分の意志で拒否した、教師の説得の言葉に納得できなかったから、と書かれています。
私の思うにここでは書かれていませんが、それだけではなく、やろうと努力しても“できなかった”という部分もあるのではないか、という気がします。

左利きの度合いが非常に強い子の場合、やろうと努力しても“できない子”もいます。(私は典型的なそういう子でした。)
そういう場合は、本人が劣等感を持つようになります(ぼくは、人ができることもできないようなダメなやつだ!)。

また仮に、この秋山さんのように断固とした意志で拒否した場合は、「強情な、協調性のない、素直でない子」といったレッテルを貼られることもあります。


どちらにしても子供にとっていい状況ではありません。

この辺はちょっと読んでいて辛いものがあります。

私はこの著者より二年ほどあとに生れているのですが、学校で教師からこのような扱いは受けたことがなく、その点は助かったな、と思いました。
もしこのようなことがあったら、私は秋山さんのように断固として突っぱねることはできなかったことでしょう。
そうなっていたら、と思うと正直なところ、ぞっとします。


 ●左手人差し指のやいとの痕
 

<左手の やいとの痕も うすくなり>

これは私の作った「左利き川柳」の一つです。

ホームページ「左利き川柳」の解説にも書いていますように、私の左手の人差し指の背の方の、付け根と第二関節とのあいだに、直径5mm程度のやいとの痕がありました。
さすがに寄る年波で、しわに隠れて見分けにくくなってしまいましたが。

小さい頃に親がなんとか左手を使わせないように、と努力した証です。
しかし、その甲斐なく、私の左利きは“頑固”だったようで、右手を使うようにはなりませんでした。


左手にはもう一つの跡が残っています。
こちらも今では寄る年波には勝てず、しわの中に埋没していますが。

それは火箸のあと。
当時の冬の暖房器具と言えば、一に火鉢でした。
火鉢には火箸が欠かせぬものです。
金属製の箸です。
当然熱くなると素手では持てません。

ところが何かのはずみで手を伸ばしたのでしょう。
親指と手の甲にかけてくっきりと残っていました。

やっぱり左利きだったのです。
つい左手が出てしまったのでしょうね。


【以下、次回に続く...】

▼参照サイト:『レフティやすおの左組通信』
レフティやすおの左利き自分史年表
レフティやすおの左利き人生 少年時代 その1 
左利き川柳

本稿は、メルマガ『左利きで生きるには 週刊ヒッキイhikkii』
第39号(No.39) 2006/7/15「私にとっての左利き活動」より、「■レフティやすおの左利き活動万歳■ 私にとっての左利き活動(1)」(隔号掲載)、および『レフティやすおの左組通信』「レフティやすおの左利き人生 少年時代 その1」を元に、一部加筆修正したものです。

【左利きライフ研究家レフティやすおのできるまで】過去の記事
第1回

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※本稿は、gooブログ「レフティやすおの新しい生活を始めよう!」に転載しています。
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2012.06.15

「いい本」選び

私の読書論-34- 本選びの方法 直接法(5)目次
―第83号「古典から始める レフティやすおの楽しい読書」別冊 編集後記


★古典から始める レフティやすおの楽しい読書★
2012(平成24)年6月15日号(No.83)-120615-
私の読書論-34- 本選びの方法 直接法(5) 


本誌では、本の選び方として、実際に現物の本を手にしての「直接法」としてお話しています。

本を選ぶ際に何を基準にするか、というのは、あくまでも自分の読みたいことやものが書かれているかどうか、でしょう。
そんなことは分かり切っていることです。

ホントに言いたいことは、それを読んで自分の利益になるかどうか、という点です。

この“利益”というのが難しいところです。


利益には、直接的な利益と間接的な利益があります。

また、短期的利益と長期的利益といった考え方もできるでしょう。
それは、即効性の読書と遅効性の読書と言い換えることもできます。

さらにコストパフォーマンスの問題があります。
時間を掛けただけの成果があるかどうか。

そこを見極めるのが、本選びであり、本選びが必要となる所以です。


「いや、大人の読書は、そのような打算に満ちたものであってはいけない」
とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。

それの一つの考え方です。

しかし、誰でも何かしらの“利益”を求めているものではないでしょうか。

口には出さなくても、心に秘めたものがあるのではないでしょうか。
それを下心や欲と呼ぶのは簡単です。

でも、自分の為す行為に何かしらの見返りを期待するのが人間というものです。
それは決して否定されるべきではないと思います。


読書も同じです。

高貴で気高い尊い行為である、と考えるのもいいでしょう。
気持ちの良いことです。

でももっと貪欲なものと考えるのも、まちがいではない。

人間というものは、もっと汚いところもいっぱい持っていて、抱え込んでいる存在だからです。


弘法大師空海は、人間というものは誰でも心の中に仏性を持っている、と言います。
しかし、一方で悪の心、悪いところもいっぱい持っている、それらも含めて人間なのだ、と言っていると聞きました。

そういう汚い存在であっても、内なる仏性に目覚めて精進すれば、成仏できるのだ、と。

 ・・・

読書ごときものに価値や理屈をあれこれつけることはありません。

「いい本を読めば自分は幸せになれる、そして人にも伝えられる」と、
ただ信じて読めばいいのだと思います。

問題は、大事なポイントは、その「いい本」です。
ここで再び、本論に戻り、「いい本」選びが重要になってくるのです。

―というお話でした。


*本稿は、アメブロ『レフティやすおの作文工房』より「「いい本」選び」を転載しています。

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2012.06.14

左利きは不作法か:小笠原流礼法にみる~左利きで生きるには 週刊ヒッキイhikkii316号

先週の無料左利きメルマガ『左利きで生きるには 週刊ヒッキイhikkii』第316号の告知です。

 ・・・

第316号(No.316) 2012/6/9「左利きとマナー(5)左利きは不作法か」は、
<左利きとマナー>を考えるの第5回「左利きは不作法か」です。
ネットの作法に関する記事―小笠原宗家礼法総師範・源松斎菱高氏のお話を元に考えてみました。

この方は左利きで、左利きを無視した作法というものに疑問を持たれていたのですが、小笠原流の門をたたいた時に、左利きを否定する作法のあり方が誤りであると知らされたと言います。

形だけをマネするお稽古事的作法とは違った,「真の礼法」に接したことを実感した.

詳細は本誌で。

*本誌で取り上げた本:
『見えざる左手―ものいわぬ社会制度への提言』大路直哉/著(三五館 1998/10)


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※本稿は、gooブログ「レフティやすおの新しい生活を始めよう!」に転載しています。
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2012.06.11

【左利きライフ研究家レフティやすおのできるまで】第1回

これからお話しするのは、私がどのような経過をたどって「左利きライフ研究家」となるに至ったか、という物語です。
できうる限り幼少期より順を追って、私の左利き活動に影響を及ぼした重要な事項―そのときどきの(記憶に残っている)私の考え私が読んだ左利きに関する本の記録話題になった出来事などを振り返りつつ綴ってゆきます。

本稿は、無料メルマガ『左利きで生きるには 週刊ヒッキイhikkii』(第39号 2006/7/15 ~ 第112号 2007/12/15)での連載記事「レフティやすおの左利き活動万歳/私にとっての左利き活動」(全19回)に、ホームページ『左利きを考える レフティやすおの左組通信』「レフティやすおの左利き人生 少年時代」等の記事を交え、加筆修正したものです。

このメルマガ連載記事は、第69号(No.69) 2007/2/17「私にとっての左利き活動(10)」にも書きましたように、

私がそもそもいかなる理由で左利きの活動を始めたのか、そのきっかけや動機について語りつつ、その当時の一般社会における左利きに対する見方といったものも伝えられるものなら、という考えで書いてきたシリーズです。

なぜ左利きの活動を始めたのか、という左利きライフ研究家としての私の原点となる部分と言えます。

この文章をお読みいただくことで、私および私の左利きに対する考え方をご理解いただく一番の早道になるだろうと考えます。


 ●右利きにあらずんば…

私の小さい頃―昭和の30年代、今から半世紀ぐらい前―は、まだまだ左利きというものは、忌避される存在でした。

極端な言い方をすれば、真っ当な人間にあらずといった所でした。
行儀作法を身に付けた人間なら右手を使うものだ、というわけです。

そこで左利きの子供に対しても、右手使いが正しい作法であるという考えから、「左利き(利き手)の矯正」<※>と称して、右手を使うように指導することが、躾として行われていました。

食事の席で箸を使うとき、文字を書くときなど。
少なくともこの二つぐらいは右手でできなければ、という考えでした。

しかし、この二つこそは、ある意味では最も人間らしい―すなわち、他の動物と人間とを区別する所作でもあります。

(そんな人間としての存在に関わるような動作を非利き手で行え、というのは、考えてみれば、エゲツナイ虐めといえますまいか!)

幸い、すでにその頃から日本でも、左利きは左手を使えばいいじゃないか、という(今日から見ればごく当たり前の)発想が教育界にも浸透し始めていたのでしょう。

私の小学校入学時、母が相談したときには、担任の先生からそのままでよいという言葉を得て、私の左利きは公に「認められる」ことになりました。

(今から考えますと、この先生の考え方は進歩的なものだったようです。
かなり時代を先取りしていた、といえます。
なぜなら、その後左利きライフ研究の活動を続けているうちに気付いたことなのですが、同世代や私より下の世代でもかなりの人たちが学校で「変換(矯正)指導」を受けた、と話していたからです。
ただし、わが校では他の児童も皆そういう扱いだったようで、学校全体、先生たち全体のお考えだったように思われます。)


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<※>【「左利き(利き手)の矯正」について】
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 今までにもあちこちで書いていますが、あえて、もう一度。

「矯正」とは、正しく矯(た)める = 正しく形を整える・悪い性質や癖を正しく直す、ことを言います。

言葉の意味としましては、広辞苑第六版によりますと、

きょう‐せい【矯正】
 欠点をなおし、正しくすること。「歯並びを―する」

熟語として挙げられているのは、以下の通りです。

きょうせい‐いん【矯正院】
きょうせい‐きょういく【矯正教育】
きょうせい‐じゅつ【矯正術】
きょうせい‐しょぶん【矯正処分】
きょうせい‐しりょく【矯正視力】
きょうせい‐やく【矯正薬】


また「矯」という字は、

意味:(1)ゆがみを正す。ためる。「角つのを矯ためて牛を殺す」(小さな欠点を直そうとして、かえって全体をだめにする)「矯正・矯風」
(2)うわべをかざる。いつわる。「矯飾・矯詐」
(3)つよい。はげしい。「矯激・奇矯」首をそらすようにもたげて勇みたつ意から。
解字:形声。「矢」(=まっすぐな矢)+音符「喬」(=高くて先端がしなる)。曲がったものをまっすぐに直す意。

(広辞苑第六版より)


以上のように、「矯正」とは、欠点や誤りを正す、悪い癖を直す、といった意味で使う言葉であり、用例としては、歯列矯正・視力矯正・非行少年の矯正などがあります。

かつては、左利きの左手使いは、作法にもとる行為・悪い習性・悪癖であり、右手使いこそが正しい、とされていました。
そこで、右手を使うように指導することを指して、「矯正」と呼んだのです

「左利き(利き手)の矯正」という言葉には、そういう背景があり、本来、そういう考えの上で使われているものなのです。

これを最近の人は、単に「変える」の漢語表現と勘違いしていることがあります。
が、これは明らかに誤りです。
英語で言えば、correct(訂正する、矯正する) とchange(変える、交換する) の違いでしょうか。

(矯正施設 a correctional facility. 矯正視力 corrected eyesight. 矯正措置 corrective measures. 矯正体操 corrective exercises.)
(パーソナル和英辞典より)

私のサイトでは、「アピール左利き」として、この言葉を使わないようにして欲しい、とお願いしています。

過去の経験として受けた「矯正」事例についてのみ使用し、「左利きの子を矯正すべきかどうか迷っています」といった際には現在形・未来形の文章では用いないように、という意味です。

「右手を使わせる」「右手使いにさせる」などで充分伝わります。
「矯正」という言葉から、さも正しいことであるかのような誤った印象を与えかねません


子供のときに「左利き」や「矯正」という言葉を辞書で引いた記憶があります。
やはり自分の左利きはいけないことなのかな、と疑問に思ったからでした。

辞書には「左利き」については、善悪・正邪といった価値判断にはふれていませんでした。
しかし「矯正」に関しては、「欠点を正す」といった意味が書かれていました。
調べた結果は、「良い」とは言い切れない、といった印象で、決してはかばかしいものでありませんでした。

子供にも「正」しいの字は読めます
大人の会話の前後の文脈から、かつての私のように、いらぬ想像をすることは充分考えられます

1970年代「左利き友の会」を主宰された精神科医・箱崎総一先生は、その著書『左利きの秘密』(立風書房・マンボウブックス 1979.6)の中でこう書いておられます。

私は、この矯正といういい方が好きではない。「曲がったこと、悪いことを改め、正しくする」という意味で使っているのだろう。だが、矯という字には「偽造する、いつわる、かこつける」という意味もあるのをご存知だろうか。》(第七章自然界の左利き現象)p.174

すなわち、左利きの子を「矯正」するということは、左利きの子が自分自身を「いつわる」ように指導すること、という解釈も成り立つのです。

人間たとえ子供であっても、自分自身を偽って生きるというのは、あまりいい気もちのするものではないでしょう。


この「矯正」が誤った指導であるということは、すでに私の一連の記事の読者の皆様には充分ご理解いただけているものと考えます。

▼参照記事:
・『レフティやすおの左組通信』<レフティやすおの左利き私論2>
 右手使いへの変更(矯正)について
・『レフティやすおのお茶でっせ』
「利き手(左利き)の矯正」という言葉の使用について
 他、etc... 
▼アンケート:
「矯正」という言葉の不使用のお願いアピールについて
(『左組通信』表紙、『お茶でっせ』サイドバーにて)
『左組通信』<左利きプチ・アンケート>第11回
「利き手(左利き)の矯正」という言葉をどう思いますか

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※本稿は、gooブログ「レフティやすおの新しい生活を始めよう!」に転載しています。
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2012.06.07

左利きの鋏の選び方を考える・中編~左利きで生きるには 週刊ヒッキイhikkii315号

先週の無料左利きメルマガ『左利きで生きるには 週刊ヒッキイhikkii』第315号の告知です。

 ・・・

第315号(No.315) 2012/6/2「レフティ・グッズ・プロジェクト<左手・左利き用品を考える>第5回」は、
<左手・左利き用品を考える>「レフティ・グッズ・プロジェクト」の第5回「左手でも切りやすいハサミ」とは?<5>「左利きの鋏の選び方」を考える・中編です。

前回に引き続き、ある刃物屋さんの「左手用鋏(ハサミ)、左利きと鋏」というサイトの記事についての考察です。

簡単に言いますと、
 左利きの子供も右手でハサミを使わせろ、
 なぜならハサミを使うのはそんなに難しくないから、
と。

ところが私の思いますに、これは利き手とそうでない方の手の使い方、役割分担の意味を理解されていない発言ではないのか、という疑問です。

詳細は本誌で。

*本誌で取り上げた本:
『脳を探検する』久保田競(講談社 1998/03)
『脳力を手で伸ばす』久保田競(PHP文庫 2010/6/1)
―どちらの本でも、両手の使い分けについてやさしく書かれています。
 


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※本稿は、gooブログ「レフティやすおの新しい生活を始めよう!」に転載しています。
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2012.06.06

<考える葦>パスカル『パンセ』NHK100分 de 名著2012年6月

ゲスト講師のプレゼンを受けて、古今東西の“名著”を25分の番組4回100分で読み解く番組、
「NHKテレビ100分de名著」
2012年6月は、カフカ「変身」

第1回 6月6日放送 人生は選択の連続だ!
第2回 6月13日放送 もっと誰かにほめられたい!
第3回 6月20日放送 生きるのがつらいのはなぜか?
第4回 6月27日放送 人間は考える葦である

【ゲスト講師】 鹿島茂(フランス文学者・明治大学国際日本学部教授)

○NHKテレビテキスト「100分 de 名著」 パスカル『パンセ』2012年6月
2012年5月25日発売 定価550円(本体524円


 ・・・

昔から言われることですが、古典に限らず本というものは、読む人の数だけ読み方がある、ということです。

私も思うのですが、百人いれば百通りの読み方があっていい。
しかも、たとえそれが、他人から見れば、浅い読み方、甘い読み方、ちょっと見当外れに見えるものであってもいい、と。

自分の力で読み取り、自分の頭で考えて著者の言いたいことはこうだ、この本の大事な点はここだ、と思うのであればそれはそれでよいのだ、と。


ショウペンハウエルは、「読書について」の中で、

読書は他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた後を反復的にたどるにすぎない。
と書いています。

本を読む行為だけでも、ヘタをすると人の考えた後をなぞるだけになってしまうというのです。
その上、この番組のように、本の読み方や読むべきポイントまで、人のお世話になっていていいのでしょうか?

もちろん、古典の中には、凡人である我々では自分の一人の力で読みとれない奥深い知恵が隠されている場合があります。
そういう時は、力のある人の手引きを得ることは決して悪いことではありません。

しかし、それには前提があると思うのです。
それは、まず最初は自力でチャレンジしてみる、ということです。

そして、自分なりの結論―そこまで行かなくても、なんらかの印象だけでも持った上で、人の意見を聞いてみる、ということです。

 ・・・

私も今回初めてパスカル『パンセ』を読んでみました。
ちびちび3週間ぐらいかけて読みました。

当初の予想では、モンテーニュの『エセー』的な短文集というイメージでした。
でも、実際はただのメモ的な断章を集めたものでした。

モンテーニュ『エセー』も思いついたままに書かれた短文が基本ですが、本人がそれなりの方針に基づき、三巻にまとめた随筆集でした。

しかし、この『パンセ』は全く違います。
本人がまとめたものでなく、死後関係者が自分らなりの発想で編集したものです。
それゆえ、いくつかの版があります。

『パンセ』は、当時科学的な事実が明らかにされるにつれ、キリスト教の聖書の教えの真実性に疑いが持たれるような状況の中で、キリスト教擁護の著作のための思索メモという内容だったようです。

ブランシュヴィック版を底本とする由木康訳『パンセ』の初めのほうの「第一編 幾何学的精神と繊細の精神」等の文章などは、訳注など見ますとモンテーニュに触発されたような文章が多く、この辺のものは私の心にもグッとくるものが多く見られます。
しかし、だんだんとキリスト教に無縁な人には意味不明な、ピンとこない、よくわからない記述が続きます。

正直、論理的に見てもおかしいのではと感じられなくもない理屈が述べられていたりします。
(絶対神であり世界の創造者であるはずのキリスト教の神が、その姿が見えないとか云々。)
この辺は、科学者でありながら、一キリスト教信者であることの矛盾、混乱、困惑とでもいうものなのでしょうか?


パスカルと言えば、そして『パンセ』と言えば、一番に浮かぶのが、「考える葦」という言葉です。
もう一つは「クレオパトラの鼻」

「考える葦」は、

347(200)原63《人間は一茎の葦にすぎない。自然のうちでもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である。かれをおしつぶすには、全宇宙が武装するにはおよばない。ひと吹きの蒸気、ひとしずくの水が、かれを殺すのに十分である。しかし、宇宙がかれをおしつぶしても、人間はかれを殺すものよりいっそう高貴であろう。なぜなら、これは自分の死ぬことと、宇宙がかれを超えていることとを知っているが、宇宙はそれらのことを何も知らないからである。/そうだとすれば、われわれのあらゆる尊厳は、思考のうちにある。われわれが立ち上がらなければならないのは、そこからであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えるようにつとめよう。これこそ道徳の本源である。
「第六編 思考の尊厳」p.142
となかなか含蓄のある言葉です。

「クレオパトラの鼻」は、

162(413)原487《人間のむなしさを十分知ろうとするには、恋愛の原因と結果とを考えてみればよい。その原因は<わたしには何かわからないもの>(コルネイユ)である。が、その結果はおそるべきものだ。この<わたしには何かわからないもの>、人が認めることもできないほど小さいことが、全地、王公、軍隊、全世界を動かすのだ。/クレオパトラの鼻、それがもう少しひくかったら、地の全面は変わっていたろう。
「第二編 人間学」<この世のむなしさ>p.75

以下、私の目にとまった文章をいくつか紹介しましょう。

3(751)原229《直感によって判断することになれている人々は、推理すべきことがらを少しも理解しない。かれらはまずひと目で洞察しようとし、原理を求めることには生れていないからだ。それに反して、原理によって推理することになれている他の人々は、直感すべきことがらを少しも理解しない。かれらは直感すべきもののうちに原理を求め、ひと目で見ることができないからだ。
「第一編 幾何学的精神と繊細の精神」p.15
7(510)原213《人は理知を多く持つにつれて、特異な人がいっそう多くいることに気がつく。平凡な人は、人と人とのあいだの相違に気がつかない。
「第一編 幾何学的精神と繊細の精神」p.16-17
37(195)原50《〔万事を少しずつ。――人は全般に通じることはできず、万事について知りうるすべてを知ることはできないのであるから、万事を少しずつ知らなければならない。なぜなら、万事をいくらかずつ知るほうが、一事のすべてを知るよりも、はるかにまさっているからである。そのような全般性こそ、もっとも好ましいものだ。もし両者を兼ねることができれば、それにこしたことはないが、どちらかをえらばなければならないとしたら、前者をえらぶべきである。世間もそれを認め、それを行なっている。というのは、世間はしばしばすぐれた判断者であるから〕
「第一編 幾何学的精神と繊細の精神」p.25
19(976)ポール・ロイヤル版(1678)31章《著作するとき、人が気づく最後のことは、何を最初におくべきかを知ることである。
「第一編 幾何学的精神と繊細の精神」p.20

他にも色々と興味深い記述があります。

暇な折にときおりペラペラとやってみるにはおもしろい本だと思いました。


・パスカル『パンセ』由木康/訳 (白水社 イデー選書 1990/11)
・パスカル『パンセ』前田陽一、由木康/訳 (中公文庫 1973/12)
 

・パスカル『パンセ〈1〉』前田陽一、由木康/訳 (中公クラシックス 2001/9)
・パスカル『パンセ〈2〉』前田陽一、由木康/訳 (中公クラシックス 2001/10)
 


・ショウペンハウエル『読書について 他二篇』斎藤忍随/訳 岩波文庫 改版 1983/07


*他のNHKテレビ「100分 de 名著」の記事:
2011年11月放送:2011.10.31 アラン『幸福論』喜びは、行動とともにある!
2011年12月放送:2011.12.6 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』悲しみを、乗り越えよ-「100分 de 名著」NHK
2012年1月放送:2012.1.5 吉田兼好『徒然草』両面から物事を見よ!-「100分 de 名著」NHK
2012年2月放送:2012.1.29 新渡戸稲造『武士道』日本的思考の根源を見る-「100分 de 名著」NHK
2012年3月放送:2012.3.6 仏教は「心の病院」である!NHKテレビ「100分 de 名著」ブッダ『真理のことば』2012年3月
2012.4.2 「NHKテレビ「100分 de 名著」ブッダ『真理のことば』を見て本を読んで」
2012年4月放送:2012.4.3 紫式部『源氏物語』NHKテレビ100分de名著
2012年5月放送:確かな場所など、どこにもない―100分 de 名著 カフカ『変身』2012年5月

2012年10月放送:2012.10.2
鴨長明『方丈記』NHK100分 de 名著2012年10月
2012年12月放送:2012.12.5
<心で見る努力>サン=テグジュペリ『星の王子さま』NHK100分de名著2012年12月
2013年1月放送:2013.1.11
呪文に頼るのもよし?~100分de名著『般若心経』2013年1月
2013年2月放送:2013.2.5
待て、そして希望せよ~NHK100分de名著『モンテクリスト伯』2013年2月
2013年3月放送:2013.3.28
どんな時も、人生には、意味がある。フランクル『夜と霧』~NHK100分de名著2013年3月(再放送)
2013年4月放送:2013.4.11
真面目な私とあなた―夏目漱石『こころ』~NHK100分de名著2013年4月
2013年5月放送:2013.5.20
水のように生きる『老子』NHK100分de名著2013年5月
2013年6月放送:2013.6.5
生きる喜びは、どこにあるのか?『戦争と平和』トルストイ~NHK100分de名著2013年6月
2013年7月放送:2013.7.9
哲学とは、愛である『饗宴』プラトン~NHK100分de名著2013年7月
2013年11月放送:2013.11.10
「物語」に終わりはない『アラビアンナイト』~NHK100分de名著2013年11月
2013年12月放送:2013.12.11
切り離された者たちへ~ドストエフスキー『罪と罰』~NHK100分de名著2013年12月

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2012.06.03

5月21日『HEY!HEY!HEY!』木村カエラへの左利き動画

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もうかなり前の話になりますが、5月21日に放送されたフジテレビ系『HEY!HEY!HEY!』(ダウンタウンの松本・浜田のお二人が司会の歌番組)で、木村カエラさんがゲストでした。

木村カエラさんは左利きで有名です。
30分ごろからその左利きをネタにしたビデオが流れました。

HEY!HEY!HEY!動画CHAMP

「右肘左肘交互に見て!」というギャグが売りのお笑いコンビ2700のお二人さんによるものでした。
「右利き左利き交互に見て」というもの。

 左利きでは不便なことがあるでしょう。
 僕たちなりに解決策を考えて来ました。
 ひとつは、左利きグッズを使うこと。
 そしてもう一つの解決策は、とにかくがんばること。

右手用の急須と左手用急須を使ってお茶を交互に入れたり、ドアの鍵をあけるのを右手左手で交互にやって見せたりしています。

ただしドアの鍵を開けるときは、右手でひねって開けるとスムーズだが、左手でやるときは難しい。
で、逆立ちしてやる、というのです。
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悩みごとがあっても笑い飛ばすという方法も、一つの立派な処世術だとは思います。
決してまちがいとは言い切れません。
それで解決することもあるでしょう。

しかし、私のように、長年左利きの問題と真剣に取り組んできたものから見ますと、今回の内容はちょっと茶化し過ぎとも映ります。
(別に急須でお茶を入れるシーンがあるから、というわけではないですが。)

「真面目に取り上げてもおもしろくない」と言われればそれまでです。
「どうせバラエティ番組なんだから」という考え方もあるでしょう。
「2700さんのギャグにピッタシ、これでいけるでェ!」という制作者さんの気持ちも分からなくもないのですが、短絡的と言えば短絡的にすぎるのではないでしょうか。


もう少し別のアプローチもあっていいのではないか、という気がしました。

まじめに入って二つ目で落とすにしても、もう少し真剣に取り組んでいるように見せてからでもいいのではないか、という気がしました。
その方がもっとおかしく笑えたはずです。

厳しく言えば、あれでは最初から最後までおちゃらけです。
(別に急須でお茶を入れるシーンがあるから、というわけではないですが。)

笑いにもならない不真面目さの印象だけが残ります。
再考を!


もしあれが身障者の悩みかなんかだったら、あんなふうには扱わなかったのではないでしょうか?

右手が不自由になってリハビリ中の人を相手に、右手左手交互に…、なんてやって笑いのタネにできるでしょうか?

「左利きの悩みごときは所詮、笑いの種」という軽い気持ちがどっかにあるのでは?
私の考え過ぎ、被害妄想であればいいのですが…。

※ちなみに、ビデオで紹介された急須・お玉・缶切りを提供したのは、左利きグッズの店で知られる、当ブログでもおなじみの神奈川県相模原市の菊屋浦上商事(株)さんだそうです。

*参考:
左利き用 急須 萬古焼 こげ茶色(みのる園)
左利き用 ステン横口レードル70cc(53071)
【業務用】 栓抜 缶切 左きき用 C-7165


マミレル【初回限定盤】(DVD付) 木村カエラ

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※本稿は、gooブログ「レフティやすおの新しい生活を始めよう!」に転載しています。
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