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2004.04.28

左利き短歌に挑戦

悪い手としっぺされてた左の手今は昔の思い出の中 麗風亭康翁

この名は私のサイトでやってる「左利き川柳」の時に使っているものです。
当初最後の部分を「遠いかなしみ」としていたのですが、かなしみを言葉として出すのもどうかと思い変えました。それでも、全体に単なる説明に終わってるようで、左利きのかなしみは感じられないようです。
試作第一号としてはこんなものかな?

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2004.04.24

プチアンケート第3回「左利きの子に右手使いを試みるべきか否か」のお知らせ

サイドバーでも紹介していますように、私のサイト「レフティやすおの左組通信」で、本日4月24日よりプチアンケート第3回「左利きの子に右手使いを試みるべきか否か」の受付を開始しました。

内容は、

かつて左手で箸を使ったり字を書くことを無作法なことと考え、右手使いに変えるように強要する事が「左利きの矯正」と呼ばれて行われてきました。
現在では左利きが生来のものでひとつの個性として考えられるようになり、自然に任せる教育が浸透してきました。
しかし、現実は社会の多数が右利きで、道具その他生活上の不便さなどを思うと、字を書くことや箸を使うことなど特定の作業だけは右手でできた方がよいのでは、という考えを持つ方もいます。また実際に、私は右手使いに変えてよかったという経験談も聞かれます。右手使いを試みるべきか否かと悩む親御さんは少なくありません。

このような左利きの子に箸を使うことや字を書くことなど特定の作業だけでも右手使いを試みるべきか否か、という相談に接したとき貴方はどのようにアドバイスしますか?

というもので、選択肢はそれぞれ、利き手別に4段階用意しています。

1 (右利きの人)絶対賛成―必ず成功する、やるべきだ
2 (  〃  )積極的賛成―積極的に試みるべき、ダメでもともとできればプラスになる
3 (  〃  )消極的賛成―基本的には反対だが、現状では試みるだけなら否定はしない
4 (  〃  )絶対反対―プラスにならない、成功しても失敗しても問題が残る、自然に任せるべき
5 (左利きの人)絶対賛成―必ず成功する、やるべきだ
6 (  〃  )積極的賛成―積極的に試みるべき、ダメでもともとできればプラスになる
7 (  〃  )消極的賛成―基本的には反対だが、現状では試みるだけなら否定はしない
8 (  〃  )絶対反対―プラスにならない、もし万一成功しても問題が残る、自然に任せるべき

選択肢が賛成に片寄っているように見えますが、「消極的賛成」は決して薦めているわけではなく、試してみようとする人は試してみてもよいという考えです。

さて、どのような結果となりますでしょうか。皆様、ぜひご協力ください。
特に右利きの方のご意見をお聞きしたいものです。

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2004.04.23

過去の再放送について

>昔の演説の再放送ではなく、

というコメントをいただきましたので、これについて「釈明」してみます。

人間も私ぐらいになってくると、過去の再放送が心地よく感じるものなのです。懐かしいようなほんわかした気持ちになります。きっと年を取った証拠なのでしょう。人間は常に新しいものに好奇心を持って取り組まねばいけないのですが、ちょっと疲れたときなど、こういうものに浸りたいものです。
温故知新というほど大層なことではありませんが、こうしてリフレッシュする時があってもいいのではと思います。

もうひとつは、私のオリジナリティーとは何かと考えたとき、それは昔の経験しかないわけです。これが一番の売りじゃないか。新しいことは新しい人にもできるけれど、昔のことは昔の人がやるべきだろう。私は少しですが知っています。その範囲で話せる事もあるのではと考えています。

さらに、過去の再放送に関していえば、いかに変化しているか、あるいは変化が乏しいかを見ていただけるのではないか、という思いがあります。
幸い私が過去に書いた文章が残っていますので、これをひとつの記録と見立てひとつの歴史を知ってもらおう、ということです。
そして、10年前に書いた文章がそのままでも通ってしまいかねない状況がある、という事実に目を向けていただきたいのです。十年一日という言葉がありますが、この問題でもそれが通ってしまいかねないのです。

細かく見れば、学校関係でも大いに進歩しています。「左利き対応」という言葉も随所で見られるようになりました。
左利き用品の普及も目覚しいものがあります。少なくともハサミなどはたいていのお店で、一種類ぐらいは見かけるようになりました。
また、左利きについてくわしい人から見れば、左利き対応商品はこんなにもあるよ、こんなところでも左利きの人に気をかけているよ、という事実は明らかでしょう。

しかし、一般の人たちの間ではどうでしょう。
世の中左利きに優しくなってきた、こんなものもあるし、知らないうちのこんなふうに変わっている、でもまだまだ改善の余地があるのは誰の目にも明らかだ、とは言えないと思うのです。
改善する必要を感じていない人がまだまだ多いのです。そういう人たちに訴えていかなければいけないのです。
私はそう考えています。自分にできることから実行してゆくつもりです。

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2004.04.20

水栓ハンドルから考える

「左蛇口に右水栓」にコメントをいただきました。それを元に少し考えて見ます。

栓をひねるくらいなら、左利きの人でも右手で右側の栓を開け閉めするのは容易ではないかという感じもするのですが、そうでもないのでしょうか。/というのは、右利きのあっしなんかでも左手でドライバーを使うこともあるので、なんとなくそう思った次第です。/ただ、栓が右についているということが不公平であることは否定できませんが。

ここに「利き手」と「使い手」のおもしろいところがあります。
人間を長くやっていると自然に身につく動作というものがあります。条件反射といいますか。
たとえば同じ水周りで言うと、水洗便所の便器の水栓のレバーというものはたいてい右手を伸ばしたところにあります。いくら私が左利きだからといっても左手を伸ばしてこれを使うことはありません。無意識に右手を使っています。
通常「利き手」といえば無意識に、知らず知らず使ってしまう手と考えます。しかしこの場合は違います。これは左手ではむずかしい、右手が早くて便利、と身体が学習しているからでしょう。
状況によって「利き手」と「使い手」を分けることはよくあります。しかし、これは両手が使えるという必要条件があってのこと。

もし、右手が不自由ならどうでしょうか。左手でほとんどのことをしなければいけない状況になったときはどうすればいいのでしょう?
もし左右同じ条件に設定されていたら、問題なく使えます。しかしこのように右手でないと使いずらい状況であれば、問題があります。

本当は、単に左利きの人のためだけではないのです。こういうあらゆる状況を考慮して設計することがこれからの社会には大切な要素になってきます。
ユニバーサルデザインという考えがそれです。誰にでも使いやすいものを、という発想で作ってゆくことが重要だと思います。

もうひとつの落とし穴があります。「これぐらいのことなら」という発想がそれ。
ホントにこれぐらいのことなら問題にならぬ、とみんなが考えるなら本来右用と左用が半々、50:50で存在してもいいはずです。誰もが右手と左手を同じ比率で持っているわけですから。
ところが右用ばかりが世に氾濫しているのはなぜでしょう? 
これは逆に「これぐらいのこと」だからこそ「利き手」が選ばれるのではないでしょうか。「これぐらいのことだから」―日常茶飯事のことだから、とっさに使いやすい手である「利き手」を使おうと考えるわけですね。

右利きの人が左手を使う状況を考えると、たいていは右手がなんらかの理由でふさがっている場合が多いのではないでしょうか。あえて左手を使うという状況が作られている場合ではないかと想像します。
右手に子供を抱いているため、左手を使わねばならない、あるいは重い荷物は右手でしか持てないのでを左手を使わねばならない、等。
これは左利きの人が右手を使う場合と同じです。右手を使いたい、というより、右手を使う方が手っ取り早い、あるいは使わざるを得ないと判断した時でしょう。頭が判断するときもあれば、身体が判断するときもあるわけです。

先に「平等に不便になる選択」を提案しました。そのときに、真ん中に投入口のある自動販売機なるものを例えにしました。
今回の、水道の蛇口の水栓ハンドルこそ真ん中に設置し、どちらの手でも使えるようにするべきかもしれません。

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2004.04.18

左蛇口に右水栓

水道の蛇口と栓の位置に関しても、左利きには問題となる点があります。
従来の蛇口の上にねじ式の回転型の栓がついているタイプは、回転方向の問題は別にして、位置には困りません。
しかし同様のものでも蛇口が扇形に可動するタイプのものは、栓のハンドルの位置が向かって右横についていて右手用になっています。右手でないとうまく使えません。

そして最近増えている蛇口と栓のレバーが別のタイプでは、すべて蛇口が向かって左側で、栓のレバーの位置が右側になっています。
開栓後、手をぬらして石鹸を使う。その後一旦水を止めようとする時、左利きの人がごく自然に左手で栓に手を伸ばすと右手がじゃまでその上を跨がねばならない。すなわち水のムダ使いをやめようと頻繁に出したり止めたりしようとすると、その都度両手を交差させねばならないのです。これは非常にうっとうしい。
ちょっとしたことなのですが、ちょっとしたことであるが故に気になり始めると無性にいらいらしてきてストレスになります。何とかならないものか、と思います。ねえ、なんとかできません(栓)か? なんて。

当然、右利きの人はこういう目に会うことはありません。自然な流れで操作できるでしょう。ここでも右利きに便利になっているわけですね、うん!
ちなみに、わが家ではこのタイプですが、石鹸入れや歯ブラシ、歯磨きなどは左側に置いてあります。

また、ねじ式の水栓ハンドルについていうと、その回転方向を子供の頃は良く間違ったものです。どっちに回したらいいのかわからなくなって、きつく閉めてしまったり、どんどん開けてしまっていつまでたっても水がジャージャー出っぱなしになってしまったり、といった失敗をよくやらかしたものです。こういうときは何も考えずに、条件反射に任せて身体のするままに動かせば、チャンと対応できるのです。下手に考えるとろくなことがありません。
でもこれも左利きと関係があるのでしょうか?

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2004.04.16

平等に不便になる選択―少数派からの提案

人は生まれつき不平等なものです。だからこそ生きていく上で機会の均等、平等を求めるのです。せめて機会ぐらいは平等に与えられるべきだ、と。

しかし社会は効率を考えます。民主主義は多数決という決定手段を取ります。それゆえ少数派は隅に追いやられたり、忘れられたりすることもあります。

そんな社会も成熟してくると、単なる効率第一主義ではなく、ゆとりの必要性を感じるようになります。潤いを求めるようになります。
人に対する思いやりの重要性を感じるようになります。
そんな考えを具体的に現したものに、ユニバーサルデザインがあるのではないでしょうか。
誰にも扱いやすいものを作ってゆこうとする考え方。

しかしこれはむずかしく考えると何もできなくなります。
たとえば障害者といっても人それぞれです。それをひっくるめてみんなが満足できるものを作るのは非常に難しい。
そうではなく、この程度の不便ならみんな我慢して使えるというものに発想を変えてみるのひとつの方法でしょう。

左利きの私は、右側にコインの投入口がある自動販売機の類が苦手です。つい、左手が投入口の位置に来るように右側によって立ちます。
もしこの投入口を真ん中に寄せれば、左利きの人はもちろん、右利きの人でも右手に荷物を持つ癖があり左手を使わねばならない人にとっては、従来のものよりずっと便利になるはずです。左側にあればベストですが、今までよりは進歩したことになり、ベターといえるでしょう。
一方、右利きの人はどうか。確かに多少は不便になるかもしれません。しかし、左側になるよりはましです。これで幾人かの人の不便が解消されるとなれば幾ばくかの満足感も得られるのではないでしょうか。
左手を使う人にも多少の不便。右手を使う人にも多少の不便。でもどちらの場合もさほど困りはしない。
こんな平等があってもよいのではないでしょうか。

平等に不便になる選択―こんな方法もおもしろいかもしれません。案外、ユニバーサルデザインの基本かもしれません。
少数派からの提案です。

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2004.04.14

「笑っていいとも」角野卓造さんと左利きの話

きょうは、昨日4月13日見たテレビの話―

お昼のフジテレビ系「笑っていいとも」で、テレフォンショッキングのゲストは角野卓造さんでした。
タモリさんのストラップがもらえるという、会場アンケートでボタンを押すのがひとりだけを予想するコーナーで、「私は左利きで、今は直しませんが昔は字を書くのと箸を使うのは直されたもので……両手で同時に字が書ける、名前だけですが」と発言され、両手で同時に字が書ける人、ときいてみると―。
結果は、なんと11人。意外に多いのでびっくり。(このアンケートに答えられる人は会場に見学に来た女性のみ)

左利きの人では、大なり小なり右手が使える人が多く、小さい頃に右手使いを試したことのある人というのも結構いるようです。
また、特に女性ではまだまだ左手使いは見苦しいといった偏見から右手使いをさせられる人が少なくはないようです。(最近ではあまり使われませんが、この左利きの子に右手使いをさせる行為を昔は「左利きの矯正」と呼んでいました。嫌な思い出のある人はこれを「強制」と書き換える場合もあります。)

そういう人たちならこういう数字もあるかな、とも思われます。
しかし、左利きの割合が平均1割、10パーセントといわれていますので、この数字は左利きの人だけの数字とも言えないようです。
右利きの人で、左利きにあこがれて左手で字を書いてみる練習をする人がいます。そういう人も含まれているのでしょうか。
あるいは、単純にゲームのように遊びで両手書きをする事もあるので、そういうこともあるのでしょうか。

いずれにせよ、左利き問題を考える私には、非常に興味のある数字でした。

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2004.04.11

サイト内検索をできるようにしてみました

お知り合いのココログでもあちらこちらサイト内検索をできるようにしておられるところが増えてきたので、うちも少しは記事が増えてきていることもあり、導入してみることにしました。
ココログルの検索が速いようなので、「いかんともしがたい」さんちの「ココログル検索窓を設置する その2」で紹介されていたものを使わせていただくことにしました。(元になる「健康な生活を送ろう!」のCurryさんのも拝見させていただきました。)
どうもありがとうございます。

きっと閲覧者の皆様にも喜んでいただけるのではないでしょうか。
(自分が一番喜んでいたりして…。)

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2004.04.10

私には夢がある"I HAVE A DREAM" speech―わが左利き活動のバックボーン―

“開幕戦の舞台となったアトランタは「わたしには夢がある」の演説で知られる公民権運動の指導者、キング牧師が生れ育った場所。「世界一のショートになる」。夢の実現にむけ、最高のスタートを切った。”

アメリカ大リーグ・メッツに入団した、松井稼頭央内野手のその開幕戦での、初球ホームランを含む二塁打2本3打点の大活躍を伝える4月7日産経新聞夕刊記事で佐藤正弘氏は、こう締めくくっています。

キング牧師(アメリカでは、ドクター・キングと呼ばれます)のこの有名なスピーチを織り込んだこの記事に私は大いに感動しました。思わず目頭が熱くなり、やったぜ松井、これからもがんばれよ、と心の底から叫びたくなりました。

この「お茶でっせ」を始めた時(2003.12.23)に私は「左利き宣言」を発表しました。その中でこのドクター・マーティン・ルーサー・キングDr. Martin Luther Kingの「I HAVE A DREAM 」スピーチにふれました。
このスピーチこそ私の左利き活動のバックボーンともいうべきものなのです。
この中で彼は肌の色の違いによって差別されることのない社会の実現を訴えました。私は、利き手の違いによる差別のない社会の実現を訴えたい、と思ったのです。

私が初めてこのスピーチを知ったのは実は大人になって、それもかなりしてからのことでした。
生れて初めて自分自身の左利き用品を手にし、海外には左利き用品の専門店や左利きの人のための会があり雑誌があるということを『モノマガジン』という雑誌で知り、左利きに「目覚めた」私はぜひこのような世界に近づきたいと思うようになりました。
そのためにはやはり英語を勉強しなければ、と考えた私はNHKのラジオ「基礎英語」「続基礎英語」(当時)の放送で勉強を始めました。
そしてその「続基礎英語」で、このスピーチと出会いました。

ここにその最も有名な部分を紹介しましょう。

"I HAVE A DREAM" speech in 1963 by Dr. Martin Luther King, was born in Atlanta, Georgia, on January 15th 1929.

I say to you today, my friends, so even though we face the difficulties of today and tomorrow, I still have a dream. It is a dream deeply rooted in American dream. I have a dream that one day this nation will rise up, live out the true meaning of its creed: “We hold there truths to be self-evident, that all men are created equal.”

I have a dream that my four little children will one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin but by the content of their character. I have a dream today.

 今日皆さんに申し上げたいのは、たとえ今日や明日が難しかろうとも、私には夢があるということです。それはアメリカンドリームの奥深くにある夢です。いつかこの国が立ち上がって、「人間はすべて平等に造られているという真実を我々は自明のことと思う」という信条の本当の意味を全うするという夢です。

 いつの日か私の四人の小さな子どもが皮膚の色よりも人間性の中身によって評価されるという夢です。今日私には夢があるのです。

斎藤誠毅訳『NHKラジオ続基礎英語1993年1月号』より

それ以来私はこの言葉を心の中で唱え続けてきました。"I HAVE A DREAM"「私には夢がある」と。
そしていつしか、左利きの活動を始めるようになっていたのです。
この夢の実現のために。
左右共存の社会の実現のために。


*キング牧師―人種の平等と人間愛を求めて (岩波ジュニア新書)
辻内 鏡人

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2004.04.07

再び「(左利きの)矯正」を死語にしよう―生きた言葉として使わないようにしよう

先に(2004.4.2) 「(左利きの)矯正」を死語にしようと書きましたところ、へそ美人さんのコメントやひでゆきさんのココログからのトラックバック「あえて「左利き矯正」という言葉を使います。」という反響がありました。
ただ、私の考えがもう一段練れていなかったのと、表現に足りないところがあったせいでしょう、今ひとつ私の真意が伝わっていないように思われます。そこで再度書いてみます。

結論:「(左利きの)矯正」を「生きた言葉」として使わないようにしよう。

かつて「(左利きの)矯正」と言う言葉が使われていたが、というふうに「過去における歴史的表現」として使用する。

例文:私は左利きの子に右手使いを試みること(かつてはこれを「(左利きの)矯正」と呼んだ)を否定するものではありません。

今読んでいる『新・脳の探検』下巻(フロイド・E・ブーム他著中村克樹/久保田競監訳 講談社ブルーバックス


―ちなみに「利き手と大脳半球」というコラムがあります。左利きについて簡単に知りたい人は、立ち読みできる分量ですので一度のぞいてみてください。(本屋さん、ごめんなさい!)文化の影響についての記述では「右手でするように強制します」という表記が見られます。―

での統合失調症の記述は、見出しで「統合失調症(精神分裂病)」と記載されています。そしてこの項目の最初の部分で訳注が入り、「2003年に日本精神神経学会では精神分裂病を統合失調症とよぶことにしました」とあります。そして以後はすべて「統合失調症」の一語のみで記述されています。(別項目で記述されているときは「統合失調症(精神分裂病)」)

これに倣ってもよいのではないでしょう。
成人病も生活習慣病に名称が変更されました。実態を正確に反映していないという理由で。テレビの健康番組などで紹介されるときは、「生活習慣病、以前は成人病と呼ばれていた病気ですが」といった説明がされています。

トラックバックをいただいたひでゆきさんの主張されるところは、

Webを使った発言の場だから、「左利き 矯正」などの検索語でサーチエンジンを使う人のためにあえて使う、というものです。

私はWebについてもコンピューターについても素人ですから詳しいことは知りませんが、機械的検索ではその言葉が「生きた言葉」として使われているか、「死んだ言葉」として使われているかに関わらず、拾ってくれるのではないでしょうか。

多少わずらわしくても、上記の例に倣って「過去における歴史的表現」として、括弧書きの注意書きとして封じ込めてもよいのではないでしょうか。

各ファイルの冒頭でのみ1箇所このような併記をすれば、以後はその注意書きを省いてもそのファイル自体は拾ってもらえるのでは、と考えています。
それともこの方法では技術的に無理なのでしょうか?

もう一点の言葉だけ言い換えて安心したくないからに対して。

私は単に言葉の言い換えだけで満足しているものではありません。
これは過渡期におけるひとつのプロセスです。
小さな一歩かもしれません。しかし確かな歩みになるはずです。

私の最終目標はあくまで左右共存社会の実現です。
そのために途中ブランクはありましたが十数年前から、新聞を発行したり小冊子を発行したりしてきました。確かに世間でその活動を知っている人は非常に少なく、一般の方々には信じていただけないかもしれませんが…。
しかし、これからも一時的に諸事情で休むことはあるかもしれませんが、左利きあるいは利き手の問題を自分のライフワークとして活動してゆくつもりでいます。

(さてさて自慢話は別にして、本題です。)

私がこのたび、「(左利きの)矯正」という言葉を現代において「生きた言葉」として使わないようにしたいという考えは、次代を担う子どもたちにマイナスのイメージを与えたくないからです。

子供たちにはよいイメージを持って育って欲しい、のです。子供の心は明るく清く育てたい、ということです。
左利きの子どもに左利きに対してマイナスのイメージを与えたくないのです。

私が小さい頃は残念ながら左利きに対してマイナスのイメージがいっぱいある中で育ってきました。当時はそれが左利きに対する平均的な反応でした。
それゆえに今でもかなりのコンプレックスを持っています。
これはいいことではありません。何かにつけてマイナスの反応しかしない人間になってしまいました。

(さて私のことは横に置いて、本題です。)

先の文章でも書きましたように、「(左利きの)矯正」という言葉は、現代においては不適切な用語です。これはどなたもご理解いただけると思います。

(ひでゆきさんもそのサイトで利き手は「直すべき癖や習慣」ではないわけで、本当は矯正という言葉は不適当なのですがと書いておられます。)

言い換えれば言葉の「誤用」です。
誤りを正して、左利きに対して誤ったイメージを与えないようにしたいのです。

単に言葉狩りをしようとか、この言葉に対する好き嫌いや快不快でいうのではないのです。
近年の子育て相談においても、この言葉を相談の依頼者側が使うことはあっても回答者側が使うことはまれになっているようです。

世の中には実際の左利きについてご存知でない方がまだまだおられます。わが子が左利きと判り初めて左利きの人間を見たと言う方もおられます。
「(左利きの)矯正」の「矯正」という言葉がどういうものか知ったときに、生半可な知識でさも右使いが正しいと判断する人が現れないとも限らない、と思うのです。(杞憂に終わればよいのですが。)

従来一般名詞として使われてきたから状況が変わってもそのまま使い続けるのは、私には単なる怠慢に思えます。より適切な言葉を考えるのが言葉を道具とする人の取るべき態度だと考えます。
過去にいろんな言葉が実情に合わせて置き換えられてきました。この言葉だけを例外として放置する必要はありません。

私はこの言葉を使うなというのではありません。過渡期においては併用し、この言葉を使う人一人一人が注意書きを添えて言いかえを促進していただきたいと考えるのです。

ひでゆきさんは社会が変われば言葉はあとからついてくる」という考え方を私も信じています。と書いておられます。

しかし「言葉から始まる」ということもあります。

ひでゆきさんにももう一度考えていただければ、うれしいのですが…。
いえ、もちろん、ひでゆきさんだけではありません。
何も考えていない人が大勢おられます。
というより、問題であることをご存じない人、気付いておられなかった方と言うべきでしょうか。

皆様にももう一度この機会に、この問題を頭の片隅で結構ですから、気にかけていただければうれしく思います。

言い換え表現について
1 善悪正邪あるいは正誤といった内容を伴わない、中立な言葉
2 失敗したのは努力が足りなかったせいだ、といった気持ちにさせない言葉
3 感情を刺激しない言葉
4 日常使うような平凡な言葉
5 子供にもわかるような平易な言葉
といった点に注意すればいいのではないでしょうか。

私は、
右手を使ってみる
右手使いを試みる
右手使いを試行する
ぐらいでよいのではと考えています。
「練習」はセーフかもしれませんが、「訓練」はやめたほうがよいように思います。

亜希子先生に歌って欲しい―
♪よ~くかんがえよ~ ことばは だいじだよ~

*参照:
・『レフティやすおの左組通信』
右手使いへの変更(左利き矯正)について―レフティやすおの左利き私論 2―

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2004.04.05

左利きのよいイメージを訴えてゆこう

イメージには力があるのです。
自分自身に、人生というものによいイメージを持っている人は、物事に前向きに積極的に取り組んで行きます。常に明るく将来を展望し生きてゆきます。結果的に幸運が舞い込んだりします。それはよいイメージの持つ力です。
逆に、自分自身に、人生に悪いイメージを持っている人は、何事によらず消極的で無気力で動きも鈍く、暗く物事を考えてしまいがちです。そういうときには、実際に不幸が起こりがちです。

このたび、左利きのイメージ調査を実施しました。
人がどのように感じているかを知ることで、改めて左利きに対する人々の考え方を類推できるように思われます。
よいイメージが強ければ、左利きに対しても肯定的な答えが期待できるし、左利きの問題を解決する力になるでしょう。逆であるならば、左利きがそのようなものではないと訴えていけばよいのです。

結果は、まず半々というところで、悲観的でもなければ、楽観的でもないと考えられます。
全体を通じての意見から、左利きに対する悪い空気を感じました。
しかし、これは過去からの遺産で、近年左利きというものが生まれつき持った個性として認められつつある現状において、左利きの顕在化により徐々に解消してゆけるものだと思われます。実際にそういう意見もありました。

これからを生きる左利きの人たちに不幸が訪れないように、このよい傾向を大切に育ててゆきたいと思います。
左利きに対するよいイメージを広めてゆきたい。
そのためにも左利きの人がもっともっと世に出て欲しい。
身障者が町に出ることにより身障者への理解が深まるように。社会のあり方が身障者に対するバリアフリーへの方向に導かれるように。
左利きの人がまちで目立てば目立つほど、左利きに対する違和感が除かれ、親近感が高まり理解が深まってゆく。

かつては左利きであることを隠していた人たちがいました。恥ずかしいことと感じていた人たちがいました。
人前ではなるべく目立たぬように振舞っていた人たちがいました。人前でだけ右手を使っていた人たちがいました。

しかし今は違うのです。もっと自由に使いやすい手を使っていいのです。
自分の利き手を明らかにしてよいのです。
右利きの人が自然に右手を使うように、左利きの人はあるがままに左手を使ってよいのです。
そして利き手は違っても、一人の同じ人として、理解し合えるようになりたいものです。

そのために左利きの振舞いのよさを見せましょう。カッコイイところを見せ付けましょう。
鋭い動きを、鮮やかな展開を、しなやかな身のこなしを。
明るい言動からイメージを変えてゆきましょう。
○○? それって昔のことだよ、と言えるように。

若い世代には、いまさら何を言ってるの? と思われるかもしれませんね。
しかし、人の世には歴史があります。昔々はいろんなことがあったのですよ。
でもこれからは、よいイメージだけを広げてゆきましょう!

左利きって便利だよ! いろいろ考えるチャンスがあるから。

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2004.04.04

左利きの本だなぁ『左利きの秘密』箱崎総一

「お茶でっせ」版<左利きの本だなぁ>の第1回ということで、私が初めて読んだ左利きの本を当時の読書録より紹介しましょう。

箱崎総一著『左利きの秘密』立風書房マンボウブックス 昭和54(1979)年6月発行


 著者は、アメリカ留学から帰国後、精神医学クリニックを開業、左利きの人の悩みを知り、“左利き友の会”を組織した(四年半の活動の後、赤字で解散)。
「この本はこうした“左利き友の会”の活動の一つのしめくくりとしてまとめてみた。それがこの会の事務総長として最後の義務であるように私には思えるからである。」―「筆者まえがき」より
 左利きの人、左利きの子を持つ両親はもちろんだが、広く世の人々に読んでもらい、左利きに対する偏見を一掃し、真に左右平等の世になってほしい、とつくづく思った。
 読んでいて、こういう本を世に出さねばならないこと自体に、なんともいえぬ強い憤りを感じた。
 ぼくもこの会のことは新聞の記事で知っていた。設立当時は大いに話題になり、新聞などマスコミに取り上げられ、ぼくも入りたいと思ったことがあったが、残念ながら連絡先がわからず、入会できなかったのである。解散したというのはさびしい。
 非常に勇気づけられる本。希望が見えてくる。少なくとも自分の苦しみを理解してくれる人がいると感じられるのは、うれしい。
 欧米では、左利きの存在は常識で、左利き専門店があり、そこでは左利き用品が販売され、価格差もないというのはうらやましい限り。
 日本でも、「筆者まえがき」にあるように、左利きの問題は明るい方向に向かってはいるが、左利きとして生きてゆくのは、まだまだいろいろと精神的な苦痛、不快なことが多すぎる。
 多くの人がこの本を読んで、右利き偏重社会を改めていけたらいいと思う。

(目次紹介)
筆者まえがき
第一章 左利きの文化史
第二章 理不尽な偏見と迫害
第三章 左利きのメカニズム
第四章 左利きよ、立ち上がれ!
第五章 左利きの子を持つ親に
第六章 スポーツと左利き
第七章 自然界の左利き現象
第八章 左利きのための書道教室
巻末資料 左利き便利帳

―1979年12月10日 記 (2003年3月19日 一部加筆修正)

<左利きの本だなぁ>とは、私が以前出していた季刊誌「Lefties' Lifeレティーズ・ライフ(LL)」のコラムのひとつで、左利きに関する本―科学的研究書・啓蒙書、左利きの人を応援する激励本といったノンフィクションから、左利きが主人公、あるいは重要なポイントとなっている小説、左利きとは直接関係はないけれど左利きについて考える一助となりそうな小説まで―を紹介するコーナーです。

*参照―『レフティやすおの左組通信』「左利きphoto gallery〈HPG2〉左利きの本だなぁ」
「Lefties' Lifeレティーズ・ライフ(LL)再録」

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2004.04.02

「(左利きの)矯正」を死語にしよう

今回は「(左利きの)矯正」という言葉について考えて見ます。

「矯正」を実際に受けた左利きの人の中にはこの言葉を「強制」と呼び換え、嫌う人がいます。「強制」的に右手使いに「矯正」され、心に傷を受けた人たちです。
ここでは、そういう被害者の心理を思い図るという観点からではなく、あくまでもその言葉の持つ意味という観点から考えてみたいと思います。

アンケート「左利きイメージ調査」の報告(3/29付記事)でも書きましたように、左利きを取り巻くマイナスイメージというものを感じる人が右利き左利きの区別なく存在するのです。
この目に見えないけれど確かにある悪い空気のような存在はなんでしょうか。
その昔からいわれている左利きに対する差別的な偏見が生き残っているのでしょうか。
もしそれが生き残っているとすればそれはどのようなところにあるのでしょう。
一番の根源は、実際の左利きの人を知らない右利きの人たちが抱いている、昔からの左利きに対する考え方に基づく誤解や偏見の類でしょう。

そして私は、「(左利きの)矯正」というこの言葉の存在自体が、それらの誤解や偏見を助長し、これらの悪い空気を醸成するのに一役買っているのでは、と考えています。

「「右利き」または「利き手」の問題を考える」という記事でもふれましたように、
「矯正」とは、
「欠点などを正しく改めさせること。まっすぐに直すこと。/「歯列―」「非行少年を―する」」三省堂国語辞典

本来、この「矯正」という言葉は、「善悪正邪」という価値判断を含む言葉であり、この言葉を使う「行為」はすなわち善であり正しい行為であるわけです。
視力矯正、歯列矯正、さらには先日見た新聞広告の本の題名「少年A矯正2500日全記録」のように、年少犯罪者の矯正という場合など。

では左利きの子が左手で箸を使ったり、字を書いたりする行為は悪いことなのでしょうか。
確かにかつては左手で箸を持つ行為は、無作法であり、見苦しいとされたこともありました。
字は右手で書くものだ、という考えもあるようです。

(また、今でも一部の宗教や作法の流儀の中には、左手使いをタブーとするところもあるようです。しかしそれはあくまでもそれらの人たちの間でのことでしょう。ローカルルールとしては尊重すべきかもしれませんが、決してグローバルスタンダード、世界的な標準ではないはずです。)

そのような時代にあっては、この言葉が正しい用法であったでしょう。
しかし今は違います。左利きの成因が脳神経科学の発達から生来のもので後天的に変えられるものではないと判明し、固有の性質として認めるべきものであると考えられるようになりました。

もはや現代では、左手使いは悪いこととは考えられていません。
ゆえに左手使いを右手使いに変更する―直す?―必要はありません。
しかし、左利きの人のなかにも、その偏り具合に差があり、人によっては右手も使える人がいるというのも事実です。そういう可能性を認めて、右手使いを試行する―試みる―ことを否定するものではありません。
ですが、その行為を「善/正しい」と考えるわけではありません。
それゆえ、この行為を「(左利きの)矯正」と呼ぶのは適切さに欠けた表現というべきで、左利きに対しなんら知識を持たない人に誤った先入観を与えることになります。

ではかわりにどのような言葉を使うのがよいのでしょう。
最もふさわしいものは、中立の立場にたったもので簡単な言葉であるべきでしょう。
私の考えでは「右手使いを試みる」というものです。
これならこの行為はあくまで、試行であり、訓練ではないので失敗に終わっても本人もさほど傷つくことはないでしょう。
「訓練」といってしまうと努力によって成否が左右されるような気がします。失敗する子は努力が足りぬと受け取られるかもしれません。

さて皆さんはどのように思われますか。
みんなで考えてみたいものです。

*参照:
2004.4.7 再び「(左利きの)矯正」を死語にしよう―生きた言葉として使わないようにしよう
・『レフティやすおの左組通信』
右手使いへの変更(左利き矯正)について―レフティやすおの左利き私論 2―

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