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2004.03.31

輝ける明日のために…

 世の中には、様々な難問があります。人が生きているかぎり、尽きることなく、次々と新たな問題が生まれ、消えていく…。
 それらの問題を解決するためには、まず最初に、その問題のなんたるかを認識しなければなりません。
 あなたの病気が何なのかを知らなければ、治療法は見つかりません。運がよければ、対処療法で、いつしか直るかもしれません。しかし、根本治療とはなりません。

 社会問題でも同様に、先ずその実態を知らなければなりません。
 女性差別問題が、女性だけの問題ではないように、黒人差別問題が黒人だけの問題でないように、それらは、それぞれの差別される側の人だけに限られた問題ではないのです。
 左利きの問題もまた同じく、左利きの人だけの問題ではなく、右利きの人も含めて全人類の抱えている問題なのです。
 これを機会に、誰のためでもなく自分自身の問題として、もう一度考え直して行きたいものです。

 最初は「自分の思い100%」で、読者のことも考えず、内容も充分に練ることもなく、とにかく何かやらなくては、という気持ちでスタートしました。
 しかし、そうして始めてみるとだんだんと欲が出て、ああもしたい、こうもしたい。こうした方がいいのでは、ああした方がいいのでは、といろいろ考えるようになりました。
 また、もっと読者に興味や関心を持ってもらう方法はないか、とも考えるようになりました。
 少しずつ改良を加え、より読みやすく、中身のあるものにしていこうと努力しています。
 これからもなにとぞ暖かい目で見守り続けてください。
 
 そして、いつの日にかこのような小文が不要になる時が来ることを心から祈っています。
 輝ける明日のために…。

*本文は、「LL5 1995(平成7)年夏号」の巻頭の言葉を一部加筆修正したものです。
およそ9年を経た今も、まったく変わらぬ自分がいます。まったく進歩のない己の姿に唖然としてしまいます。
そして社会の状況もさほど変わらぬような気がします。確かに個々の左利きに対する対応はいい方向に変化しているようです。しかし、社会全体のシステムには依然左利きに対応する明確な変化は現れていないように、私には思われます。
個人の努力だけでカバーできることは限られています。社会全体がこの問題を改善を要する問題として認識し、改善に向けて取り組んで行かなければ解決されないのです。

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2004.03.29

第1回「左利きイメージ調査」結果報告 

以前この「お茶でっせ」でも紹介しました、私のサイト「レフティやすおの左組通信」で実施したアンケート「左利きイメージ調査」の結果を報告します。(アンケートの詳細は、3/7付記事「左利きイメージ調査」、アンケートの企画意図、中間報告は3/12付記事「なんで「左利きイメージ調査」なん?」をご参照ください)

実施期間 2004年3月7日~27日(3週間)
投票総数 43(右利き10/左利き33)
投票結果 総計+15:-18:なし10(右利き+2:-5:なし3/左利き+13:-13:なし7)

―結果から思うこと
投票数が決して多くないので調査サンプルとしての有意性についてはなんとも言えません。ほぼ半々と考えてよいようです。確かに数字としては右利きの人で-が多くなってはいますが、絶対数が少なく、これだけではなんとも言いかねるところです。
私の印象では、投票者の意見を総合して考えると何かが見えてくるようです。
それは目には見えないけれど確実にあると思われる、なにかマイナスイメージを伴う左利きを取り巻く悪い空気のようなものです。
そしてそれは右利きの人にも左利きの人にも共通して見られるもののようです。

-の意見:
(左利きの人)
・なんとなく嫌な感じがする
・左利きの人間です。その私が言うのも何ですが「左利き」という言葉を入れるだけでマイナス的な受け答えになるとは・・・
・右利きの人が左利きの人を「ヘタ」とか「不器用」なんて見下してるようなマイナスイメージがありますねぇ     
・左利きの私ですがこの言い回しだとマイナスの印象を受けてしまいました。
(右利きの人)
・左利き=少数派=人と違う=悪い っていう思考パタンを学校生活で身につけてきたので、どうしてもとっさに否定的に感じます。

一方、+の意見を見ると、左利きの人自身が自らの左利きという性質を肯定的に認めた結果という傾向が見られたようです。

+の意見:
(左利きの人)
・私は、アンケートの答えは+です。 
(右利きの人)
・本当は右利きのかたが何らかの理由で左手を使うことを余儀なくされた。しかし、左利きのように器用に物事をなさっていた。という風に解釈しました。

なしの意見: 
・「左利き」って言葉だけではマイナスもプラスも感じないですし。

―最後に一言
この目には見えないけれど確かに存在していると思われる左利きを取り巻く悪い空気のようなもの、左利きのマイナスイメージを作っている要素のひとつに、私は「(左利きの)矯正」という言葉がある、と考えます。

「矯正」とは、
「欠点などを正しく改めさせること。まっすぐに直すこと。/「歯列―」「非行少年を―する」」三省堂国語辞典 

まさに間違いを正す、過ちを改めるという意味で使われるべき言葉です。
かつて左利きによる筆や箸の左手使いが無作法である、間違いであるとされた時代にあっては、正しい用法であったかもしれません。
しかし左利きが生来のもので、個人のひとつの性質と考えられるようになった現代において、右手使いを試みるという行為を「矯正」と呼ぶことは、左利きに対しなんら知識を持たない人に誤った先入観を与えかねません。

私はこの言葉を使わないようにして欲しいと考えています。
それだけでも、左利きに対するイメージが変わってくるような気がしています。

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2004.03.28

プチアンケート第2回「左利きで困ったこと(物理的バリア編)」のお知らせ

サイドバーでも紹介していますように、私のサイト「レフティやすおの左組通信」で、本日3月28日よりプチアンケート第2回「左利きで困ったこと(物理的バリア編)」の受付を開始しました。

内容は、
左利きの人が日常「これは不便だ、これは困った」と思うものはどんなものでしょうか? 「これは使いづらい、これはイライラする」など不満に思うものは何ですか?
というものです。
右利きの人にはどれが一番に選ばれるかを予想して投票に参加していただきます。また「右利きだけど、これに関しては左手使いで困っている」という方は、右利き項目でその旨投票してくださってもかまいません。

選択肢は大まかな分類で、具体的な品名は各自意見として書き込んでいただく形になっています。

また前回のアンケート「左利きのイメージ調査」の結果もご覧になれます。
では、ご興味とお暇がおありの方は一度ご覧ください。

(「物理的バリア」とは、道具や機械、その配置といったシステム全体など、物理的に改善できうる障壁を指しています。なお「心理的バリア」に関しましてはいずれ「左利きで嫌なこと」と題してアンケートを実施したいと考えています。)

*【追記】2012.1.20
・『レフティやすおの左組通信』
<左利きプチ・アンケート>第2回「左利きで困ったこと(物理的バリア編)」
・リクルートの雑誌『R25』の左利き記事
2007.12.6 R×R 右利きが左利きより多いのはなぜ?
で紹介されました。
2007.12.6 『R25』左利き記事にコメント掲載される

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2004.03.26

ココログ3ヶ月/ウェブログ衣替えについて

最近ココログ仲間の皆様(ごめんなさい、勝手に仲間扱いして、そちら様にはまったくその気がないかもしれません)のWeblogが模様替えされています。新しいテンプレートが追加されたとか、新しいサービスが始まったとか話には聞いているのですが、私はまったく見ていません。年のせいか、元々保守的なせいか、単に好奇心が足りないのか…。

気にはなるのです。たとえばココログツールにしても、一つ二つ登録はしているのですが、正直なとこ使い方がわかりません。そのままほったらかしになっています。
サイドバーの表示ひとつ変えるのも、四苦八苦したものでした。
ボチボチ勉強して何とか流行おくれにならぬように工夫したいものですが…。

ココログプラスは6月いっぱい無料とか。いろんなパターンがあったり、簡単に衣替えができたりするそうで、チャレンジしてみたいのですが、いったんそのサービスに慣れると元には戻れなくなるのでしょうね。うまくできてるというか…。複数ブログも持てるらしいですが…。

まあ、試してみる値打ちはあるのかも。
たとえば、左利き関係だけ切り離すとか。でも入れ物はできても入れるものがなければ意味はないわけで…。

気分転換のためにも、ちょっと改装して見ようかな~、と思いつつムダに日をすごしている、やっちゃんです。

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2004.03.25

『のら犬ローヴァー町を行く』マイクル・Z・リューイン

『のら犬ローヴァー町を行く』 ROVER'S TALES マイクル・Z・リューイン (田口俊樹訳)早川書房


マイクル・Z・リューインは私の好きな作家の一人で、<心優しき知性派>私立探偵アルバート・サムスンのシリーズが特にお気に入りです。

で、ローヴァーです。その名のとおり放浪者である一匹の犬を主人公にしたハードボイルド犬物語。
ちょっとサムスンに似ているかもしれませんね、その性格は。ただサムスンより、格闘では強いかも。

猫が嫌いで、徒党を組むのが嫌いで、家に縛られるのも嫌というまさに一匹狼ならぬ一匹犬。でも女性(雌犬です、当然)は好きで気に入った女性には優しく迫って…。若者をちょっとすぎた分別ある中年と言うところでしょうか。まだまだ若いものには負けない体力もある。気力もある。ちょっとおせっかいなところもあるが、悪いやつらは許せない。困ってるやつは見捨てて置けない。でもホントはちょっとロマンチストかも。

というわけでいく先々で出会う犬たちのトラブルに巻き込まれながら、時には人を懲らしめあるいは助け、独立心旺盛な一人前の自由犬として生きてゆく。

 世の中がよくなる可能性など、あってなきに等しいものかもしれない。それでも、自分が世の中にいなければ、その可能性はゼロになる。参加もせずに勝てるゲームなどありはしない。

38のエピソードからなる、小品。挿絵もかわいくて、犬好き、動物好き、人間嫌い(?)なら楽しめるかも。
とはいえお子様よりは大人向け、オッチャン向けかもしれません。
私の好みの一編は、やはり「プリンセス」ですね、ロマンティストですから。
寝る前にポツリポツリと一話ずつ読んでみるのが正しい本書の読書法かなぁ、と思います。

放浪する犬といえば、昔のテレビ番組で「名犬ロンドン物語」というのがありました。お話は……(この項続く?)

マイクル・Z・リューインのホームページ(日本語のあいさつ文がある)

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2004.03.23

ココログ3ヶ月

ココログも始めてから3ヶ月になります。早かったのか、長かったのか。
最初は何も知らず、タダだしおもしろいかも、と単純な動機で始めたものです。
当初はもっと軽いフットワークで、好きなこと書くぞ、と思っていたのに始めてみるとだんだんと重くなってきたようです。自分だけがそう思っているだけかもしれませんが、なんとなくしんどさを覚えるときもあります。

開設から1ヶ月ほど過ぎた頃にやっとカウンターを設置。当初は記事をUPしたときで30超、ない日で20前後でした。それが2ヶ月目で50超の30前後、今では100なんて日があります。
アクセス数が伸びるのはうれしいし、励みにもなるのですが、私のような左利きという(残念ながら)今の世の中ではマイナーなテーマのウェブログの場合、この数字はどうなのか、多いのか少ないのか、いろいろ考えてしまいます。

左利きのネタが尽きるということは特にないのですが(基本的にいいたいことはひとつで、その思いをいろんなパターンで綴っているだけ)、遅筆で、1本の記事をものにするのに何日もかかってしまったりします。

記事としては二日に一本はあげたいという希望を持っています。そのうち左利きの話題は半分ぐらいにしたい、後は好きな本のことなど綴っていきたいと思っていました。
しかし、だんだんと左利きの話題が増えてしまいます。他の話題を選ぶことに躊躇する自分がいたりします。

左利きの話題を求めて訪問される方がいるのではないか。そちらをまず満足してもらうべきではないか。
せっかく来たのに他の話題では、来た甲斐がないと思われるのではないか、と不安になったりします。
私のウェブログの意義はそこにあるのではないか。
そう思うと他の話題が書きにくくなる。
元々左利きの話題は自分の好きなテーマでもあるわけで、書くのに不自由はしないのですが…。
何かがちょっと不自由な気がするのです。

もっと早くいっぱい記事が書ければ、問題はないのです。しかし、時間がかかりすぎるのです、書くのに。
で、優先的に書くものを絞ってゆくと、ホントに気楽に書けるはずのものが後回しになって、タイミングを失ってしまう。ウンチと同じで欲求があるときに出してやらないと、便秘になるのですね、やはり(笑)。それは次の機会にというわけにはいかなくなるのです。

はじめのころの新鮮な気分に立ち戻って、新しい地平を切り開いてみたい、と考えてはいるのですが…。
どうなるのでしょうか。

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2004.03.22

子曰く、左を得意となす者は…

子曰く、左を得意となす者は在りのままに振舞うが直きこと。

子とはもちろん『論語』の孔子です。といってあわてて『論語』の本を紐解かぬこと。
これは孔子の教えに基づいて私流にまとめた言葉です。

正直者の話――
ある人が言うに、父の盗みを証言した子がいた。これが正直者というもの。
子曰く、父は子の悪いところを匿す、子は父の悪い点を匿す。これが「直きこと、人情の自然に即した行為」というもの、正直者だ。
匿すのは悪いことかもしれない、しかしこの世には、人の定めた善悪正邪の基準より大切なものがある。「普遍的な人間性」がそれだ。「人間の一般的な本性に基づかない理屈に従うのは間違っている」という。

人は「学則不固」―学べば固ならず―「学問をして、片意地にならぬことを身につけるがよい」、「過則勿憚改」―過ちては改むるに憚ること勿れ―「過失はあっさりあやまるべきだ」と孔子は教える。

これを左利きに当てはめて考えると、

人の本性―右利き・左利き、利き手―について勉強してその性質を理解し、人の本性に基づかない理屈―伝統的な作法だから、しつけだからと左手を使うことを禁じて右手を使うことを強要するような行為―に従うのは間違いであるとして、これを改める。

ということにならないでしょうか。

人はその自然な本性に正直に生きるのが良いのではないでしょうか。
右利きは右利きとして、左利きは左利きとして。

谷沢栄一『人間通になる読書術』PHP新書「人の世に生きる道―『論語の新研究』宮崎市定(岩波書店)」より


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2004.03.19

あなたは靴派? スリッパ派?

靴とスリッパ―あるいは、靴と靴下の問題―

 靴とスリッパと聞いて、あなたはなにを思い浮かべますか?
「靴には右と左があるが、スリッパには左右の区別はない」と答えた方は、もうこの続きを読まないで結構です。すでにもう充分ご理解いただいていると思います。そのとおり、右用と左用の違いについて考えるときに、非常にわかりやすい例になると思うのです。

靴―人それぞれの足に合わせたもの。右足用と左足用とで一組。機能的、活動的。足を保護し、足の機能を損なわず、時にはプラスアルファの能力を引き出す。
スリッパ―左右対称に作られていて、どちらの足にでも合う。おおざっぱな大きさで、誰の足にも合う。履いたり脱いだりが簡単。非活動的、勝手に脱げてしまったり、駆け足急ぎ足には不適当。

 靴・スリッパともに、長所短所、適材適所がある。それぞれの持つ特徴を生かして用いれば、これほど便利なものはありません。

 誰でも靴を買うときは、デザインや色、機能だけでなく、サイズを確かめる。実際に履いてみて自分の足に合うかどうか試してみるはず。ところがスリッパを買うときは、そこまではしないもの。
 誰も自分の足を靴にあわそうとは考えない。どんな気に入った品でもサイズが合わないとわかれば、諦めて他のものを探すのがふつう。
 また、靴は値段が高いから、スリッパで済まそうという人はまずいないでしょう。靴は靴、スリッパはスリッパ!
 ところが、世の中には靴もスリッパも区別しないで、ごっちゃに考える人がいるのです!
 もちろんこれは比喩です。(実際に靴とスリッパをごっちゃにはく人はいない―はずです)
 
靴とスリッパは使い分けている人でも、それ以外の道具に関してはどうでしょうか?

爪を切るときは、右手で左手、左手で右手!

 例えば、爪を切るとき、右利きの人は左手の爪は右手で切れますが、右手の爪は左手で切らなければなりません。
 最近はハサミで切る人は少ないかもしれませんが、ハサミで切るときは特に問題になります。これがなかなか難しい。単に利き手でないため不器用にしか動かないというだけではなく、もっとほかに理由があるのでは? と感じている人も少なくないでしょう。
 原因はハサミそのものにあるのです。
 ハサミには、右手用と左手用があるというのは、今までにも紹介して来ました。
 右足用の靴が右足のために作られているように、左足用の靴が左足のためにあるように、右手用のハサミとは右手で使うためのもの、左手用のハサミは左手で使うためのものなのです。

 残念ながら、この単純な事実を理解していない人が多いのです。靴やハサミのみならず、多くの道具には、実は、右(手)用・左(手)用の区別があるのです。そして、また一部の道具には、スリッパのように、左右の区別が必要でない品物もあるのです。

スリッパで我慢していてはダメ! 自分に合う靴を手に入れよう!

 少数派である私たち左利きは、今まで、多数派を占める右利きの人たちのために作られた、右用の道具を使うことに慣らされてきました。それが右利き用の道具であると知って使っていた人は少なく、大半の人は、何も知らずに不便だと思いつつも「これはこういうものだ」と思い込んでいたのです。
 道具などとにかく使えればそれでいいじゃないか! という人もいるでしょう。しかし、名人といわれる人ほど道具を選ぶと言います。人間が他の動物と異なる点は道具を使うことだとも言います。道具を作った人のためにも、道具は正しく使い分けてやるべきでしょう。スリッパはスリッパとして、靴は靴として―。
 スリッパで間に合うときはそれでいい。しかし、靴が必要なときは、スリッパで我慢せず、靴を手に入れるべきです。
 人は自分にあった靴を履き、活動的に生きる。
 くたびれたときは、スリッパでくつろぐ。
 そんなメリハリをつけた生活を送って行こうではありませんか!

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2004.03.16

左利きのバリアフリー

今やバリアフリーという言葉の意味を説明する必要はないでしょう。それほどさように言葉とともにいろんな場面でさまざまの事象がバリアフリー化され、普及し始めています。
そこで左利きのバリアフリーを考えてみましょう。

左利きにとっての物理的バリアとは、右手でしか使えないもの、あるいは右手でないと使いづらいもののことです。裏返しにいうと、左手では使えないもの、あるいは使いづらいもののことです。

段差がバリアである、ということは今や万人の常識となりました。段差を解消するためにスロープが設置されるようになったり、家庭内でも床面をリフォームされたりします。建築物においては段差をなくすように設計するのが当然のこととなっているようです。

同じように左利きの私としては、右手でないと使えない/使いづらいもの(左手では使えない/使いづらいもの)はバリアである、として多くの人に認知されるようになって欲しいものです。
(具体的な事実を知りたいという方は、私のホームページやこのWeblogのバックナンバーをはじめ、多く左利きサイトでさまざまな具体例が報告されていますので、そちらを参照してください。)

次に心理的バリアがあります。左利きは、めずらしいとか、変だとか、異端視する見方がひとつ。さらに左利きは不利だから直した方が得だという、歪んだ損得意識による助言に見られる、無知無理解から来る親切の押し付けなどです。
左利きの人の心を不当に圧迫する行為は人権侵害です。

左利きの人(いや左利きのみならず、あらゆる人)の権利を侵害するものはすべてバリアなのだ、と心得て欲しいものです。
そしてこれらのバリアを除く努力を一人一人が心がけて行きたいものです。

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2004.03.14

「右利き」または「利き手」の問題を考える

右利きの人のなかには、「利き手」というものがあるという事実を知らない方がいます。
じゃあ、どうして右手を使うの? と訊くと、「しつけ」だと思っていた、という答。
なるほど、箸を使うのも、字を書くのも、大人から教えられるものです。
それではそれ以外の身のこなしとかで右手を使うのはどう考えていたの? と訊くと、それは自然にそうしていただけで、特別私は右手をよく使うとか、左手を使わないな、とか意識していなかった、そうです。
学校に上って、いろいろ新しいことを習うときも、右手ですることに何の疑問も抱いたことがなかった。ごく自然に誰もがそうしているように振舞ってきただけ、だそうです。

使いやすい手―「利き手」という神経回路があって初めて右手を使うのだという認識は持っていなかったそうです。
最初におとなから右手を使うことを「しつけ」され、以後何でも自然と右手を使うのだと思っていたそうです。
このような人なら、左利きの子に対しても右手を使うことを「しつけ」として「強制する」(もちろん悪意もなければ、強制―押し付けるという意識も持ってはいない)ことを当然のことと考える可能性があります。「左利きを矯正する」という都合のいい表現もあるのです。

左利きの人のなかにはかなり高い割合で、この「左利きを矯正する」ということばを嫌う人がいます。

「矯正」とは、
「欠点などを正しく改めさせること。まっすぐに直すこと。/「歯列―」「非行少年を―する」」三省堂国語辞典 

これでは「左利きを矯正する」という言い方では、左利きが「悪い」ことになります。そんなはずがありません。左利きは持って生れたひとつの性質であり、個性です。背が高いとか、色白であるとか、癖毛であるとか、人の思うにならぬ要素のひとつで、その人個人に責任のあるものではありません。それを否定的に扱うのは個人の勝手かもしれませんが、品のよい趣味とはいえません。

話を戻して―
私が言いたいのは、「利き手」という概念を理解していない、ゆえに利き手である右手をよく使う人を「右利き」と呼び、左手が利き手の人を「左利き」と呼ぶという事実を理解できていない人が存在する、ということです。
そしてこのような人たちが、左利きを無意識に迫害する可能性があるのではないか、ということです。

結論は、このような人がいなくなるように、「利き手」という概念を啓蒙してゆかねばならぬのではないか、と思うのです。

ちなみに「右利き」「左利き」といってもその度合いは人によりけりで、ある程度どちらでも使える、あるいは動作によりどちらかを使うといういわゆる両利きに当たる人もいて、それはバラエティー豊かです。ただ数的に多いのは「強度の右利き」と分類される人たちで、その対極に「強度の左利き」があり、その中間に「両利き」もしくは「左利きに近い右利き」や「右利きに近い左利き」といわれる人たちが分布する、と考えられているようです。

(逃げ口上のつもりはありませんが、私は利き手の科学的研究をしているものではないので、科学的に見て妥当でない、間違った記述があるかも知れません。その点は含みおきください。)

【追記】2012.1.16
*利き手と左利きの研究に関する本:
(日本)
『左対右 きき手大研究』八田武志 化学同人(DOJIN選書 18) 2008.7.20
―1996年11月刊『左ききの神経心理学』以降、世界で研究された成果を一般向けに読み物とした本。
(イギリス)
『非対称の起源 偶然か、必然か』クリス・マクマナス/著 大貫昌子/訳 講談社ブルーバックス 2006.10
―20年にわたる利き手・左利き研究の成果をまとめた本。
(世界)
『「左利き」は天才?―利き手をめぐる脳と進化の謎』デイヴィッド ウォルマン/著 梶山 あゆみ/訳 日本経済新聞社 2006.7
―自身左利きの科学ジャーナリストが、左利きの謎に挑み世界を駆けるサイエンス・ノンフィクション。
  

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2004.03.12

なんで「左利きイメージ調査」なん?

私のサイト「レフティやすおの左組通信」
で「左利きイメージ調査」という簡単なアンケートを実施しています。(3/7付記事「左利きイメージ調査」参照)
何でこんなアンケートやったん、と疑問に思われる方もあるのではと思い、説明してみます。

企画意図:どうしてこのようなアンケートを試みたのか。「左利き」について考える機会を持って欲しかったから。

3/7付記事「左利きイメージ調査」のコメントでも書きましたが、一言で言うと、まず一番に「左利き」について考える機会を持って欲しかった、ということ。
大部分の人(特に「左利き」でない人)はふだん「左利き」について考えることはまずないでしょう。そこで、この機会にちょっと考えてもらおう、と思ったのです。「左利き」に関して自分はどんなイメージを持っているか、何を知っているか、「左利き」ってなんなんだろう、と考えてみて欲しいということです。

私は常々考えて来ました。多くの方に「左利き」について関心を持っていただきたい、そのためにはどういう方法があるのか、と。
なぜ関心を持って欲しいのか、というとそれはやはり「左利き」がこの世の中で十分にその権利が保障されていないと感じるからです。

(もちろん他にも権利が侵害されている人々がいるでしょう。しかし、それは私の立場で言えること、あるいは私が言わなければならないこと、ではないのです。それはそれぞれの立場の人がまず率先して訴えるべき事柄です。私はまず私自身が関わりのある問題を優先します。)

「左利き」に対しても、個人をありのままのその人そのものとして尊重するひとつの人権としてとらえる必要があると思います。 
コメントの最後にも書いたように、「左利き」も社会全体で考える必要がある事柄なのです。

たとえば、ユニバーサル・デザインという考えがあります。これはノースカロライナ州立大学(米)のロナルド・メイスによって提唱されたもので、従来のバリアフリーの概念とは違い、できるだけ多くの人が利用可能なように製品、建物、空間をデザインすることで、あらゆる人が快適に暮らすことができる社会をつくろうという考えです。
「ひでゆきの左利きの小ネタ部屋」の「左利きとユニバーサルデザイン」 によるとこの「ユニバーサルデザインの7原則」の中の「原則2:利用における柔軟性」として「2b.右利き、左利きのどちらでも利用できる。」と明文化されているそうです。

「左利き」の問題は、単なる「左利き」の人による「右利き」の人に対するイチャモンや愚痴でも、無作法者の行儀知らずでもなく、無精者の横着でもないのです。

アンケートの意味何が知りたいのですか。「左利き」と聞いたときの反応の仕方。

何かが最初に心に浮かんだ人、何も浮かばない人。
最初に浮かんだイメージをそのまま正直に投票する人、最初に浮かんだイメージに修正を加える人。たとえば、最初に浮かんだイメージとこのアンケートを企画した人の意図するであろうイメージとを比べて投票に修正を加える人―合致したものに変える人、逆に答える人―。
漠然としたイメージではなく、この状況をより厳密に再生して判断しようとする人。

といったように、いろんなパターンで考える人が出てくると思います。
それぞれに下す判断は違ってもその過程が似た人がいるでしょう。

「左利き」という言葉一つで、その人の経験や考え方により、いろんな思索が行われるはずで、自分の思想、信条といったものも明らかになるのではないでしょうか。もちろんそれは人には見えないもので、その人個人の心の中にしか見えないけれど、意外な自分に会えたという人もおられるのではないかと想像するのです。
そういう機会を持つことで、「左利き」に関しても興味を持ってもらえるかもしれない。

アンケート結果途中経過を見てどうですか。予想に近い。

1(私は右利きですが)どちらかというと、プラスのイメージ・・・・0
2(私は右利きですが)どちらかというと、マイナスのイメージ・・1
3(私は右利きですが)特になし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
4(私は左利きですが)どちらかというと、プラスのイメージ・・・・6
5(私は左利きですが)どちらかというと、マイナスのイメージ・・8
6(私は左利きですが)特になし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5

この程度の数字でものをいうのは危険ですが、それなりに傾向が出ているかもしれません。
少なくとも「圧倒的に+プラスイメージ」というわけではない、というのはわかります。また逆に「圧倒的に-マイナスイメージ」ということでもありません。
確かに「圧倒的に+プラスイメージ」というのも今の世の中では怖い。何事も中庸が一番とも言えますが、現実にいいイメージが強いという事柄も存在しないわけではないので、どちらともいいかねる結果が出ているのはいいことなのか、少し疑問です。

特に、自分を否定することにもつながりかねない「-マイナスイメージ」を左利きの人自身が持っているというのは、やはりつらい。
この辺の複雑な事情を左利きではない人たちに知ってもらいたいものです。 

「左利きの人の被害妄想さ」、と簡単に片付けて欲しくないのです。もし被害妄想であったとしても、ではなぜそのような心理になるのかという点を考えて欲しいものです。火のないところに煙は出ない、とも言います。原因があるはず。
そういう考えを持って見ていただきたいものです。

私のサイトの訪問者の投票ということで当然偏向はあるようですが、それなりに何か見えてくるものがあると思います。
その辺を読み取っていただけたらと考えています。

―アンケートはまだ受付中です。

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2004.03.07

左利きイメージ調査

このたび私のサイト「レフティやすおの左組通信」で、[プチアンケート]を利用した簡単な「左利きイメージ調査」を実施しています。

あなたは、次の○○○に「左利き」という言葉を当てはめたとき、二番目の話し手の言わんとする意味をどう解釈しますか?

A 「どんな具合でした?」
B 「彼の振るまいは、まるで○○○のようでしたよ」

 例えば、「天才」とか「英雄」という言葉をあてはめると、万事うまく行ったことになります―プラスのイメージ。逆に、「大バカ者」とか「まぬけ」といった言葉を入れると、ことがはかばかしくなかったことになります―マイナスのイメージ。さて、あなたの場合は? 次の中からお選びください。

1(私は右利きですが)どちらかというと、プラスのイメージ
2(私は右利きですが)どちらかというと、マイナスのイメージ
3(私は右利きですが)特になし
4(私は左利きですが)どちらかというと、プラスのイメージ
5(私は左利きですが)どちらかというと、マイナスのイメージ
6(私は左利きですが)特になし

というものです。
このアンケートは、スタンレー・コレン著『左利きは危険がいっぱい』石山鈴子訳 “THE LEFT-HANDER SYNDROME” (文藝春秋 1994年1月発行)を参照の上作成いたしました。
さてどのような結果になりますか、大いに楽しみにしています。

ただ私のサイトはアクセス数が少なく有意な結果が出るのか心配です。
どうかこの記事をご覧になった方で、ご興味をお持ちになられた方がございましたら、ぜひご協力お願いいたします。

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2004.03.06

「転びキリシタン」あるいは「隠れキリシタン」のように

 以前、手のない子について書いた文章を読んだことがあります。
 彼は生まれつき「棒のような手」しか持っていません。しかし、それを当たり前のことだと思っているため、手のないことの不自由さを感じていないというのです。
「手がないので不自由でしょう?」というのは、ふつうの人の勝手な想像にすぎないというのです。
 
 私たち左利きの人も、自分が左利きであることを、当然のことと受け止めています。決して自分のことを変だとか奇異だとか考えたことはありません。たまにそんな気にさせられるのは、周りの目がそうさせているからでしょう。
 左利きであること自体に、不自由さを感じたことはありません。不便だと感じるのは、あくまでもこの社会との関わりの中で生活してゆく過程においてです。
 左手も右手も対称形を成しています。鏡に映してみればどちらがどちらか区別の付かない人もいるでしょう。左手を使うことも右手を使うことも、本質においてはなんら違いはありません。右利きの人が当然のこととして右手を主に使うように、左利きの人は左手を主に使います。

 生れたときから右利きの社会で暮らしてきた左利きの人々は、なんの疑いもなく、ありのままにこの世の中を受け入れてきました。
 しかし残念ながら今現在この社会は、右利きの人達が生活するのに便利なように作り上げてきた、右利きの世界だったのです。
 人類が始めて道具を手にしたとき――このときから利き手が始まった、といわれている――から、右利きの人たちにとってはごくごく自然な発想である、右手右足といったからだの右側にある器官を優先する思想に基づいた、文明や文化を堂々と築き上げてきたのです。
 
 そんな世界で、少数の存在である左利きの人たちは、あるときは、右手を使うように「矯正」という名の強制を受け、大部分の人は「転びキリシタン」のように、訓練を受けた特定の作業のみ右手で行うことのできる「右利きもどき」のような、「隠れキリシタン」ならぬ「隠れ左利き」としての生活を強要されてきました。
 一方「転ばなかった」左利きの人は、強情で我の強い、わがままな、協調性にかける性格の「アウトロー」という烙印を押されることも間々ありました。
 さらに、「転んだ」人も「転ばなかった」人も社会のさまざまな場面で右利き用の道具や機械、それらの配置など右利き社会への適応を余儀なくされている、のが現状です。

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2004.03.05

『OUT』桐野夏生

『OUT』桐野夏生  講談社/講談社文庫

MWA(アメリカ探偵作家クラブ)最優秀長編賞の候補にノミネートされた初の日本人作家の作品というので読んでみた。

怖いお話です。もともとこういう陰惨なお話は好きじゃないのです。やくざが出てきたり、切った張ったがあったり、血しぶきが舞ったり、臓物が…、というような話は。

ミステリは好きで、ホラーも好きですが、どこか作り物という余裕のある話が好きです。

あまりに陰惨なお話で途中で読むのをやめようかとも思いました。しかし、さめたというか、乾いたというか、ある種非現実的な、孤独な心象を持つ主人公の雅子に惹かれて読み進みました。

しかしこの話は、嘘といいつつ、どこかリアルです。各家庭のあり方というか壊れ方というか。

ジャンルでいえば、いわゆるクライム・ストーリイ、犯罪小説というものです。
弁当工場で夜勤パートとして働くふつうの主婦四人が犯罪に手を染めてゆくことになる。
どうしてこんなことに…、といいつつそれぞれに事情を抱え、深みにはまってゆく―。

『ぼっけい、きょうてい』のときも書きましたがやはり女は怖い、と思う。
こんな話を書く女性も、話のなかとはいえこのような事件を起こす女性も。

男は夢に生き、女は現実に生きる。そんな物語でしょうか。
いくつになっても自分の見果てぬ夢を追うことしかできない男たちと、否応なく現実の中で生きてゆかなければならない女たち―。

そんな中で自分の自由を求める女、雅子の強さはどこから来るのでしょうか。
うらやましい、羨望の目で見てしまいます。惹かれてしまいます。

(ここからは結末に触れますので、未読の方は、そのつもりで…。)

最後は、毀れた男と毀れ切れない女の戦いとなり、死んでしまう性である男性が死に、生き残る性である女が生き残るというごく当然の結果に―。(自殺は男性の方が多いといわれます。またパートナーを亡くした男性は長生きできないのに対し、女性は長生きするといいます。)

ラスト「背中でドアが閉まったのなら、新しいドアを見つけて開けるしかない。」と再出発する雅子になんとも言えず、さわやかなものを感じました。

陰惨な話のはずなのに、心地よい読後感を抱いたやっちゃんでした。

OUT 上 (講談社文庫 き 32-3)
桐野 夏生

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2004.03.04

左利きのやっちゃんの嫌な言葉

私のいちばん嫌(いや)~なことば――それは「○○君は、ぎっちょか。器用やなぁ。」

春は新しい出会いの季節です。期待と不安を胸に新たな世界へ飛び出してゆくとき――楽しみな反面、こわい所もあります。特に新しい人との出会いには。

「○○君は、ぎっちょか!? 器用やなぁ。」

 初めて会う人から言われるいちばん嫌なことばです。
「ぎっちょ」の部分は、最近は「左利き/サウスポー」と表現されます。ここまでは事実を指摘している内容ですので仕方ありません。が、このあとの「器用やなぁ」という発言には大いに問題があります。
 このことばだけを取るとほめことばのようですが、何を指すかによって変わってくると思うのです。

 右手であれ左手であれ、利き手を起用に動かせるのは、当たり前のことですから――
 〔ぎっちょ/左利きの人〕=〔器用な人〕 という発想ならば、それは文字通りほめことばです。
 でも、〔ぎっちょ/左手を使うこと〕=〔器用〕 
 すなわち〔器用〕だから → 〔ぎっちょ/左手を使う〕 という発想ならば、それは明らかにまちがいです。
 
 左利きの人は、自分は器用だから「右手でもできるのに、わざと左手を使っている」というわけではなく、右利きの人が無意識に右手をつかうのと同じように、「自分の意志にかかわらず、ごく自然に」左手が動いてしまうのです。
 ただ単に、左手が利き手だから、器用に動くだけです。

 もちろん、発言者はそんな厳密な意味を考えて話しているわけではなく、何も考えずに、ちょっとした話のきっかけといった程度に、単純に軽い気持ちで自分の驚きをあらわしているにすぎません。

 しかし、私にはうわべだけのことばと聞き流すことができません。このような発言に接するたびに、何かバカにされている、茶化されているように思えてならないのです。
 これは単に、私の思いすごしにすぎないのでしょうか?

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2004.03.01

右手の爪が割れたとき…

「爪が割れたので、ハサミ持ってない? やっちゃんなら持ってそう」といわれ、左利き用のスイスアーミーナイフについてるハサミを差し出したところ、まったく違和感なく使っていました。
よく考えたら、右利きの人でも、右手の爪を切るときって、左手を使うものなのですね。だから左利き用/左手用ハサミでも問題なく使えたわけです。
私としては、ちょっと残念でした。「使えない!」っていう一言を聞きたかったのに…。そこでもったいぶって種明かしをする。「これはね、左利き用/左手用のハサミなんだよ」って。

そうなんです。考えれば当たり前のことだけど、右利きの人でも、左手を使うことがあるのです。左手でないとダメなときがあるのです。左手用の道具が必要なときがあるのです。

だからもっと左手用の道具も増やしましょう。
右利きの人でも左利きの人でも、作業によっては左手を使ったり右手を使ったりと様々なケースがあるのですから。

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